こんなことを言ってしまったら元も子もないのだが、格闘技術なんてものは、本当に必要なのだろうか…?
と言うのは、動物は元々闘争本能を持っており、それに必要な動きを最初から身につけているからだ。
例えば猫科などの肉食動物は、子供の頃にじゃれ合いながら遊びの中で狩りの技術を覚える。
けれど自分の体に最初から備わっている動きをするだけだ。
草食動物でも、雌の取り合いや縄張り争いなどで戦うし、時には肉食獣にも立ち向かって行くので、やはり幼い頃から闘争の術が備わっている。
我々人間だって例外ではない。
人間の幼い子供も、子供同士で遊んでいるとき、気に入らないことがあれば当然のように相手を叩こうとする。
教えられていなくても、他者を攻撃する術が本能的に備わっているからだ。
成長後も、そのような動きのままでも、それが、速く、力強ければ、充分に驚異的な攻撃足り得るのではないだろうか。
何の闘争訓練も受けていない人間の大半が弱いのは、理性ある社会の中で、闘争はいけないことだと教えられ、守られて育つからではないだろうか。
いじめられてもやり返すことを良しとしないモラルや社会環境の中で、動物的な強さが失われていったからではないのだろうか…?
もちろん暴力がいいと言っているわけではない。
本能的な強さという意味に限って言えば、社会が発達するほど、人は骨抜きになって育ってしまっているのではないかという話だ。
それはともかく。
ちょっと端折った書き方になるが、武術の技も上に行けば人間本来の動きに近くなる。
それなのに、中国武術ではわざわざそこから遠いところから始める。
いや、他の武術・格闘技だってそうなのだが、中国武術はさらに極端だ。
例えば前項で説明した足運びのように、まるで子供扱いのことから始めさせたり、同じ姿勢や同じ動作を延々続けさせたりする。
幾らそれらにさもありなんな理屈をつけたとしても、本当にそういったことをやらなければ後のことが身につかないのかどうかは疑問だ。
…で、
弱いド素人がフツーに、叩いたり、打ったり、当てたり、蹴ったり…といった動作をしても、当然ながら鋭く速くも無ければ大した威力も無い。
そういう人が強くなろうとするとき、一つ一つ動作を分解した丁寧なところから始めなければ、理解できない、身につかない、という理屈は、まぁそうなのだが、しかし、どこから始めるのかという点や、どんな訓練が必要なのかという点では、中国武術は疑問だらけなのだ。
そんなことをいつからか考え始めたとき、僕は、あまりにきめ細やか過ぎたり豊富な型や訓練法があるのは、一見凄そうでも、単に目を引こうとしていたり、修得期間を長くしていたりするだけで、嘘が多いってことなんじゃないかと疑問視するようになってしまった。
穿った見方かも知れない。
しかし、これまでにも書いたと思うが、物事を多角的に見て、いい意味で疑ってみることも、必要な考え方だと、僕は思っている。
…で、極論なのだが。
素人同然の動きでも、速くて威力が伴えば、それは充分に闘争の術足り得るとしよう。
そうなるためにはどうすればいいのだろうか。
誰でもすぐ思いつく理屈としては、まずは筋力を高めることだろう。
そして、大振りパンチなどは小さく鋭くするなど、動きの無駄を省いていくことだ。
省いて行きつつ、威力が落ちてはいけない。
また、あらゆる方向に向かって打てなければならない。
--などなど考えていくと、何だか拳法と重なってきてしまう。。
では、基本中の基本から拳法を始めて、このような姿になっていくことを考えると、どれほど遠いところから始めているのか、という想像も成り立つ。
武術が、人の知恵によって動きを高めたものであるなら、それはそれで理屈もあるだろう。
しかし原始的なものに多少の工夫を加味したものが結局は根幹で--その根幹は誰もが思い至るほど簡単では無いにしても--それを除けば、あとは流儀なりの肉付けだと、僕は思っている。
その肉付けが、有効と言えるものから離れたり、あまりにもごてごてしていたり、外側にばかり囚われて形骸化してしまったりすると、本来の闘争の術から外れてしまうと思えるのだが…。。
ちょっと遠回しな言い方に終始したが、こんなこともちょっと考えてみてはいかがだろうか。。