武術的な部分を隠している型を僕らは“見せ型”と呼んだりする。
入門書などで肝心なところを隠していたり、人に見せるとき必要な動きをごまかして見せたりするのをそう呼ぶわけだが、一方、体操的要素のみならず芸能的要素(大道芸、京劇、殺陣など)までが入ったものとなると、まさしく“見せ型”だろう。
拘って言うなら、前者は「見られてもいい型」、後者は「見せるための型」ということになる。
表演などで見られる型にはそのような型が多いように見受けられるが、何も日本人にだけそういった型を教えているというわけではなくて、当の中国人も同じ型を演じている。
それらは、我が国で柔術が柔道となっていったように、一般化されるにあたって体育、スポーツ色を濃くして変化していったものなのかも知れない。
けれど、少なくとも『強くなりたい』という気持ちで中国拳法に興味を持った人にとって、望んでいたのはそういうものでは無かっただろう。
…けれども、あくまでも私見だが、、
日本の古武術も含めて言うのだが、そんな風に変化する前の、古いものの方が何もかもいいというわけでもない。
中国拳法も古武術も、基本的に国内の同じ文化で育った者同士を想定した技となっているため、現代的な対応が遅れているように思えるところが幾つもある。
そして、現代生活や現代格闘技への対応がおぼつかないまま型稽古を中心としている場合、幻想ばかりが一人歩きして、現代武道・格闘技の立場からは“伝統芸”などと揶揄されたりする。
ちなみに以前、ネット上で、こういった揶揄に対して、
「伝統芸結構。自分はこの優れた“伝統芸”を追求していくつもりだ」
というようなことを書いていた人が居たが、それはちょっと違う。
あまり深く考えていないのだろうが、言っていることは論点をすり替えた開き直りであって、伝統芸云々は「形骸化していて役に立たない」というようなことを言っているのだから、それに対して書くなら、それが正しいのかどうか、それをどう思うのか、というあたりから書かなければならないだろう。
--で、僕は。
この“伝統芸”云々については、ある程度的を射ていると思っている。
なので、真摯に受け取って自らの方向性を模索すべきだという考えだ。
(ちなみに現代の変化した中国武術は、本来の意味での伝統からしても、ちょっと伝統とは言い難い気がするが…)
但し、誤解のないように付け加えておくが、中国武術も古武術も、現代に対応できないものではないと思っている。
また個人的には、この世界で「伝統」という言葉を使うのはあまり好きではない。
「伝統武術」などと聞くとまさに古いものをただ受け伝えているだけのような印象を持ってしまう。
もちろんそれも偏見だろうが、ともかく僕は、武術は「温故知新」であるべきだと思っている。
以前も書いた言葉だが、
『兵は常に新たなるべし』
--だ。
この世界では、古からの優れた技術を受け継いでいるということを系図などで誇示していることが多いが、具体的な技術内容をもう少し公開して示すべきだと思う。
そして古くからある優れたところをきちんと伝えつつも、時代に合わせた変化もしていくべきだろう。
あと、伝承者だとか指導的立場にある人について言うなら、当人がとにかく有無を言わさず強いか、そうでなければ一定以上の技術とそれに対する一家言持っていて、人にちゃんと伝えられるかが重要だと思っている。
(ついでに、できれば人格的にも最低限の常識やモラルを備えていて欲しいが…)
習う身からしても、そういう人にでなければ習いたくないだろう。
で、今回のお題だが。。
この世界には、“収集家”と呼ばれる人たちが居る。
例えば「武術コレクター」とか「技の収集家」とか、そういった呼ばれ方をしているわけだが、まぁ、これも揶揄的表現になるだろう。
様々な武術を学んで武術歴を華々しく見せていたり、お金を払って伝人の一人に加えてもらっていたり、中国武術のたくさんの拳種の型を習って自慢げに拳法名を並べていたり、などなど。。
もちろん、一見そのように見える人たちが皆この揶揄に当てはまるとは思わないが、結局、幾つもの武術を股にかけていながら実力が伴わなければ、こう呼ばれることになってしまうだろう。
そもそも一つに精通していれば幾つもやる必要なんて無いはずだと、誰だって思ってしまうのではないだろうか…?
研鑽を積むために他の武術をやるにしても、多岐にわたってすべてを伝えられた上で深く精通することは難しい。
多くの場合、何かベースになるものを元に、他の流儀をかじっているだけに過ぎないのではないだろうか…?
また、長年やってきた武術があるのに、いつの間にか他派に鞍替えして、にわか仕込みだろうに「全伝を授かった」とか「伝人の資格を得た」とか、それでその流派を名乗るようになったような話もある。
そんな人を見ると、節操の無さに呆れるのみならず、全伝だとか伝承者だとかが、何だかお墨付きの売買程度にしか思えなくなってきてしまう…。。
まぁ…ある程度基本が同じ系統の武術なら、短期間での鞍替えもできなくはない。
一つの流派から独立するとき、その流派を名乗りにくい場合、他派を学んで、お金を払ってそっちを名乗らせてもらうなんてのは、よく聞く話ではある。。
けれど僕は、そういう場合、どこかから看板を調達して来るよりは自分の流派を立ち上げてしまえばいいのにと思ってしまう。。
でも結局、商売として考えれば、それでは人が集まらないというわけなのだろう…。
特に中国武術の世界では。
あと、中国武術でも日本の古武術でも、特に弟子を取ってもいない田舎のじーちゃん先生を見つけて、伝人の一人に加えてもらうということもあるそうだ。
若いときに武術に励んで伝書巻物等を持っていても、特に武術環境に身を置かなくなって久しいようなご老人のことだ。
まぁ、どのように見つけてきて、どんなやりとりをして、どれくらいの謝礼を積むのかとか、詳しくは知らないが…。
また、一定以上の経験がある武術家が他の武術家と個人的な関係を築いて教えを受ける場合、初心者のように一から習うわけでないことは想像がつくだろう。
しかし、謝礼を積むにしても、他の弟子を差し置いて学ぶわけだから、核心的なところを学ぶことはできても、全部というのはなかなか難しい。
まぁ、それは人や場合にもよるのだろう。
そしてまた、これが中国武術の世界だと、どうもビジネスライクに日本での伝人の称号や最高師範の地位などを、易々と与えたりしているような印象を受ける。
実態がわからないので何とも言えない話ではあるのだが…。。
逆に、自分が学んだものの出自を明かせないという場合もあるようだ。
例えば、偶然会った修験者や坊さんに習ったとか、そんなことを言っている人も、もしかしたら自分の武術・流派や師匠を明かせない人なのかも知れない。
これから習う先を探す人は、そんな諸々も鑑みて、よくよく吟味するといい。
…ただ、趣味としてなら、今の時代、ごくフツーの教室などで習って表演競技で上位を目指したりする方が、入賞すれば実績になるし、仲良しも出来ていいのかも知れない。
僕なんかは、世間から埋もれていてもちゃんとしたことを識っている人に習いたいと思う方だけれども、そういう人の流儀は、ワケありだったり、なかなか表に出せなかったりして、自己満足な範囲でやるしか無かったりする。
それはそれで寂しいと感じることもある。…あった。
繁栄している流派・団体などで競技に精を出す方が、健全な気はしてしまう。。
さて、また取り留めない感じになってしまったが、ひとまずここで。
流儀の違いについて書きたかったことがまだあったのだが、また別の機会に。
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太極拳の勉強中でとても為になります。Posted by 太極拳 at 2012年02月13日 14:28
>太極拳さん
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Posted by hide~☆ at 2012年02月13日 19:08