中国拳法、武術、格闘技など、徒然気ままに…

太極拳ってど〜よ!?

徒然エッセイ

お金がかかる武術の世界

投稿日:2012年7月24日

若い頃の話に戻ると言いつつ、ちょっとこんな話を書いてみる。

中国武術の道場・教室は、月謝が高めという印象がある。
特に武術色を謳っているところほど、その傾向が強い。
細かく調べたわけではないが、ネットで検索して幾つか見てみると、初めての人にとっては、よほど興味が無ければ躊躇してしまう金額なのでは?…と、思ってしまう。。
一方、健康法主体の教室、個人でやっている小さな教室などでは、週1で5千円以下のところも多い。
またそういうところでも、指導者は中国や台湾のどこそこで有名な誰それに習ったとかいうことを経歴に書いている。
そして一応は型の用法や護身程度の指導をするところもあるようだ。

ここで素人なら、ひとまず手軽そうなところを優先して、
「最初は安いところで習って、基礎を身につけてから武術的なところに行くかどうか決めよう」
などと考えるかも知れない。
そしてまー、それはあながち間違った選択でもない。
武術を謳った道場・教室でも、立ち方・身法・型などはあまり変わらなかったりするからだ。
それなら安い教室で基礎を学んでも無駄にはならないとも思える。

しかし…。しかし、だ。
武術とはそういうものだろうか…?

表演武術と呼ばれるものも、それを習っている人は、
「本場で名のある先生について習った」
と思っているわけだが、やっていることは体操競技だったりダンス競技だったりする。
(武術的に役に立たないことばかりとは言わないけれど…)
その中で「伝統拳」と呼ばれるものも、どれほど昔から伝えられたものを表に出しているのかは、僕は疑問に思っている。

例えば空手の世界で『ピンアン(平安)』という型があるのをご存知だろうか?
空手をやっている人にとっては最も馴染みのある型の一つだが、元々は沖縄の師範学校で教育に空手が取り入れられた際、生徒が学びやすいようにと、新たに考案された型だそうだ。
つまりそれは、
『基礎的な動きの組み合わせで、一斉練習がしやすいように』
--ということだろう。
乱暴な言い方をしてしまえば空手版ラジオ体操と言えなくもない。
ピンアンは本土で空手が普及する過程において、初・中級者が学ぶ代表的な型になったが、精妙な体の使い方などは表現しないので、これまた普及用に広められた基本の立ち方や姿勢、きびきびとした動き(メリハリ、敏捷さ)、気力表現などが出来ていれば「上手い」ということになる。
(もちろんそれだけでも、なかなかできないことだが…)
しかしそれが本来、沖縄にあった空手と同じ姿のものかと言えば、違うだろう。

同じように、中国武術の世界も、体育的に制定されたようなやり方が広まっているわけなので、その影響を受けている門派(流派)・団体で習ったものの多くは、これと同じように変化したと考えられる。
そんな型を複数の流派に渡って幾つも集めて、系図で値打ちこいて、何年にも渡って型を次々と稽古していくのが、真っ当な武術の姿、在り方、なのだろうか…?

武術を学びたい人は、その辺のこともまずよく考えなければならない。
…と、思う。

その上で、きちんとしたものを学べると思えるところを見つけたら、高い・安いはあまり関係ない。
(高い場合は自分の懐と相談しなければならないけれど…(笑))

ただ、安く習えるに越したことはないのだろうが、踏まえておかなければならないことは、武術は本来、
『金がかかる』
--ということだ。

世の中には、高い金を取らずに教える人や、タダで教える人も居るけれども、現実、本当の武術をやって来た人ほど、そう簡単には教えない。
つまり、安い金で教える人は、大したことを学んでいなかったり、値打ちが解らなかったりする場合が多いのだ。
そうでなければ、安く(あるいはタダで)教えてはいても、表層的なことのみで、本当のことは教えない、ということだろう。
何故なら武術は、昔は特に、特権階級のものであったり、立身出世や金儲けの手段にもなる技能であったりしたからだ。
まして、
金に汚いとか嘘つきとか言われる中国人が(もちろんそんな人ばかりではないにせよ)、同じ中国人にさえ簡単に教えないことを、心の奥で敵国意識を持っている日本人にほいほいと教えるはずがない。
それでも教えるとすれば、それは“お金”…なのである。
お金も誠意の表し方の一つであり、もっとも解りやすい方法だ。
そのお金を、武術を学びたいと熱心に足繁く通って来られて、渡され続けたら、さすがに教えないわけにはいかなくなるのが人情というものだろう。
そんなわけで、昔は、武術を学ぶのに、ちょっとした家くらいは買えるほどの散財をしたという話があるわけだ。

で、ウチの流派には、
「タダで人に伝えてはいけない」
という教えがある。
値打ちの解らない人にタダで教えても何にもならないし、有り難みも解らない、というのも理由だが、それに、実際、続かないのである。
武術は、高い金を払ってでも続けようと思う人間でなければ続けられないし、教える方も、きちんと教えるのには大変な労力が伴うわけで、まずはそういった契約関係を元に人間関係を築いていくのは、一つの筋道とも言えるのだ。
だから僕は、最初、T先生に言われたのだが、前に太極拳教室をやったときなど、
「例え千円でもええから、教える場合は月謝を取りや」
とたしなめられたものだった。
(※この太極拳教室の話はまた改めて書くことにするけれども)
そしてまた、
ウチの場合で言えば、X先生が大枚はたいて習った武術を、S先生もまたそれなりに積んで苦労して習ってきたわけで、それを下の者が安く教えるのは、値打ちを解らず、そしてまた、師匠を愚弄しているのと同じ、ということになってしまう。
X先生のあるお弟子さんが、自分が道場をする際、安い金額で教えようとして、それを報告したら、X先生が激怒して破門にしたという話があるくらいだ。
そのお弟子さんにしてみれば、
「未熟な自分が教えるのだから」
という謙遜があったのだと思うが、それは違うのである。
指導者が自らを未熟と思っていても、稽古をつけてもらう者からすれば先生だし、弟子は今の自分にできないことを教わるわけなのだから。

しかしまぁ、今の時代、それでいいのかという思いも、実は僕にはある。
また、S先生もそこまではおっしゃらなかった。
僕が同好会立ち上げの話を初めてS先生にした頃は、まぁ、直接の弟子ではないからということもあるのだろうけど、S先生は、基本的には、
「あげたものはその人のもの」
というお考えで、つまり謝礼をもらう代わりに技を授けている、それはあげたものだから、それをその人がどう使おうと自由、というわけだ。
で、僕の場合、、
S先生のお弟子さんたちは、入門者から入会金と月謝共に1万円としているのだが、部外者になってしまったこともあり、ひとまず同好会という体裁で、いきなり弟子ではなく、練習生として、半分をいただくことにしたのだけれども。。

ついでに言えば。
もしお金儲けがしたければ、まずは熱心に人を集め、弟子をたくさん育てれば、安い金額設定でもそれなりに儲かるだろうし、そのうち弟子にも指導を委せたり、支部を持たせたりして、上納金を納めさせれば、少ない弟子の一人ずつから高い金を取るよりずっと儲かることになる。
つまり事業として考えるならば、ということだが。。
そして実際、大きな流派は、広く一般普及させるためとか、国民体育のためとか言いつつ、そうやって大きくなってきたわけだ。
しかし、負け惜しみのように聞こえてしまうかも知れないが(笑)、武術は人から人に伝えられるもので、一斉練習で培うものではないというのが昔ながらの考え方だ。
大勢に教えるために簡素化したり、解りやすく動作を大きくしたり、余計な付け足しをしたり、という改変を行って、それを中途半端に学んだ者が、また新たな解釈で変えていく…。。
そういう風に変化していくことを、
『技が薄まる』
と、言うのである。

その薄まっていないものを見つけられて、安く習えるなら、それに越したことはない。
あと、高いか安いかは、習う側の捉え方もあるだろうけれども。

それからもう一つ。
僕はS先生の道場に行きながら思っていたことがあるのだが、それを書こう。

S先生のところの月謝は、普通に考えれば決して安くはない。
また、古いお弟子さんはそれよりさらに高い金額を納めているし、それ以外にお中元・お歳暮、お誕生日、飲み会があるときの飲み代や車代などをみんなで負担している。
僕がT先生に払っていた月謝はS先生のところよりも少なかったが、基本、月3回を目安にということだったので、S先生のところは週2回(月8回)だから、自己都合で休む場合は仕方ないとして、1回あたりの稽古料として捉えれば、僕の方が高かったかも知れない。
それに、毎回稽古のあとに一緒にお酒を飲むときの飲み代は僕が負担していたし、S先生のところに通うようになってからは、わずかながらもS先生にも謝礼を渡していた。
そして上記の、S先生のお弟子さんたちがみんなで負担しているような分を、T先生の弟子は僕だけだから僕一人でやっていて、毎月、いや年間の出費は、門下の中で僕が一番多かったのではないかと思う。。

それでも、習い続けていたのは、もちろんまだ教わっていないことを一つでも多く教わりたいという気持ちもあったけれど、やはり一番は、特にS先生は、僕が幾ら真似しようとしても真似できないものを持ってらっしゃったからだ。
それは頭の中では理解していても、なかなか体で表現できない、幾つものこと。

S先生は器用な人で、そして研究熱心なので、たまに本やDVDで見たことをヒントに、新しいことを考案したり工夫したりして、みんなに披露されることがあった。
しかし正直、最初の頃は、
「自分の流派のことだけで充分な知識を持っているのだから、今さら本やDVDに書いてあったような薄っぺらなことをどうこうせんでもええやん」
てなことを思っていた。
ところが、ほとんどの場合、想像を超えているのである。
例えば、ある本に書かれてあったパンチの打ち方を見て、
「この本に書いてある打ち方っちゅうのは、こういうことやろ」
と、ミットを打って再現される。
違う動きなのに一定期間習ってきたようにサマになっていて、そしてずっしり重い。
(まー披露する前に幾らかはご自身で練習して試してらっしゃるにせよ…)
「ところがこの本に書いてあることの欠点はこうこうで…」
足りない部分を指摘して、
「で、ウチのやり方はこうやから、それを合わせてやるとこういうことになるな」
と、またパンッ!と新たなやり方でミットを打ってみせる。
「おお! なるほど!!」
と、みんな驚かされてしまう。。
こんな風に新しいことを常に模索して、より使える技を探求していらっしゃる。
そうでなくても、あらゆる動きが、僕など遠く及ばない。
少しでも盗むには、少しでも多く見て、少しでも多く触れるしか無い。
だから、理屈を解って納得して終わり、あとは自分で…なんて、あり得ないのだ。

まー、僕なんて趣味や道楽の域を出ていないにせよ、それでも僕にしてみれば痛いと思う出費をかけ続けてきたのには、こんなワケもあった。

あるとき、表演武術の人が、
「中国に一度行ってみるとガラッと世界が変わりますよ。やっぱり本場の空気を吸って、優れた老師に直接学んでみると違いますよ!」
なんて風なことを言ってたことがあるのだが、僕は心の中で、
「そんなものは勘違いだろう」
と即座に思った(笑)
その人だって武術を続けるために少なくない出費をしているわけだが、目的から何から、僕らとは考え方がまるで違うのである。
それに僕は、たまたま中国武術に興味を持って始めたが、何も中国のものに拘ってはいない。
それどころか日本武術も学ぶ内、
「こんなことを早い時期にわかっていれば、日本武術だけでも良かったのに…」
とさえ思っている。
だからと言って、優れた中国武術も学んだので、わざわざ捨てようとも思わない。
ただ、あえて拘って言うならば、僕は“中国武術”を続けていきたいのではなくて、“武術”を続けていきたいのである。

あと…そうそう。
木刀やら何やら、武器や用具買ったり、サプリにまで手ぇ出したり、居合刀買ったり…。
師匠への謝礼以外にも何かと出費がかさむようになったりして。。

やっぱ武術ってお金かかるよ。。

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