日本古来の徒手空拳の武技は、掴んだり、引き寄せたり、投げたり…といったことが主になっていて、突き・打ち・蹴りなどの当て身は少ないと言われている。
思うに、日本の武技は、主に武士階級で発達したのではないだろうか。
戦国時代に半士半農が多かったり、江戸時代に入って平服での柔術や捕縛の術が発達したりというのもあるけど、そういう場合も対武士を想定していたのではないだろうか。
つまり、幾らかの例外はあるだろうが、相手が刀を差している前提で技が成り立っていたのだという気がする。
そうだとすると、まず、刀を抜かせないための工夫も必要だったろうし、相手の腕を押さえたり掴んだりすることから始まるのも自然の理としてうなずける。
それから、衣服によるところもあっただろう。
和装は殴り合いには向いていないし、逆に、掴んで引き寄せたり、衣服を利用して絞めたりはしやすい。
だからボクシングのように両手で拳を構えて殴り合うという風習は、あまり起こらなかったのではないだろうか。。
また、日本人と西洋人の、筋肉の質の違いを指摘する説もある。
屈筋と伸筋については『脱力と力との狭間の迷路』でも少し触れたが、例えば腕は、骨の内側と外側に筋繊維があって、それぞれ曲げたり伸ばしたりする運動に合わせてお互いが連動し伸縮している。
屈筋は引きつける・引き寄せるなどの動作のとき主に使い、伸筋は押す・引き離すなどの動作のときに主に使われる。
そして、日本人は屈筋に優れ、西洋人は伸筋に優れていて、これが文化や生活様式、武技の違いにも関係しているのではないかという。
よく例えられるのがノコギリで、日本人は引いて切るが、西洋人は押して切るそうだ。
地面を掘るのにも、鍬は引いて掘るが、スコップは押して掘る。
んー。。。
言われてみればナルホド…なのだが、必ずしも当てはまらない気もするし、乱暴な気もする。
現代だから当てはまらない部分が多いというのもあるが、相撲には突っ張りもあるし、日本刀は引き切るとは言っても、剣術では突きも重要な技だ。打突という言葉もある。。
喧嘩でも武技でも、日本なら引き倒す方が多かったというわけではないだろう。
押し倒したり突き飛ばしたりもしただろうから。。
また、西洋にはレスリングだってあったわけだし、屈筋も多く使ったはずだ。
割合で考えるにしても…どうなのかなあ?
だから、僕的には、屈筋・伸筋を使う割合の違いというのは必ずしも妥当でないと思ってしまう。
体の質が文化に影響する部分はあるにしても、理由をそこまで遡ってしまうとよくわからない。
ともかく、
文化や生活様式・習慣の違いが、武技に大きく影響したという気はする。
ムエタイだって、暑い土地ではなくて、重くて頑丈な鎧を着て戦う方が多かったら、あんなにヒジ技や蹴り技は発達していなかっただろうし。。
…で、何が言いたいのかというと、中国武術や古武術では、他の武技への対処・対応の仕方が遅れている部分があるのではないかという点。
例えば中国武術では、ボクシングのようにさっと手を引く相手をどう扱うかということにはあまり触れずに、伝統的な型の修練と順歩突きへの用法ばかりを行っていたりする。
もちろんそれも、技を理解するため、また段階練習として、必要だとは思うけれど、時代に合ったシチュエーションや他の格闘技への想定も考えていかなければ、ただの古めかしいものになってしまう。
中国武術や古武術を、揶揄する意味で“伝統芸”と呼ぶ声もある。
中国武術だって、やはり民族の文化や風習によって出来上がった部分もあると思うし、他の武技に対しても優位に立つためには幾つも課題があるのではないだろうか…?
優れた身体操作技術や発力法などがあっても、格闘技術として今の時代にそぐわないものになってしまっては意味がないし、現代式のトレーニングで鍛えた人の方がずっと強かったりしたのでは、何のための伝承技なのだろう…ということになってしまいかねない。
温故知新という言葉に倣うならば、やはり新たなことも見つけ取り入れていかなければならないのではないだろうか。
誰だったか忘れたが、たぶん柳生但馬守(宗矩)だったような気がするけど、
「兵は常に新たなるべし」
という言葉もある。
昔の人でさえそう言ったのに、今、“伝統”を大切にしようとしている人たちは、昔からのものをそのまま大事にしようとするあまり、少しその在り方を違えていないのかどうか…!?
もちろん、新しい工夫ばかりを取り入れて、古いものをどんどん切り捨てていくのもどうかと思う。
また、かく言う僕も、この前も書いたようなことだけれど、道半ばで何もかも判断できるわけではない。
まして僕のように中途半端な腕前の者が他者をどうこう言う資格は無い。
だからそういう意味では、これは批判的な意見というわけではなくて、常々持っている疑問の一つとして書いていることをご理解いただきたい。
…で、先ほどの、ボクシングのように手をさっと引く場合云々…。
中国武術や古武術の術理でも充分に対処し得るのかも知れないけど、実際にそういう練習を深く追求してやっているところは少ないのではないだろうか。。
そして、よくあるのが、“すごい先生”が1人居て、その先生にはボクサーもプロレスラーも適わなかったとかいう逸話があって、みんなでそれを崇めているような流派・団体。。
それをいけないとまでは言わないけれど、僕的には、経験年数に応じてそれなりに使える人がたくさん居て、すごい人も何人も居るようでなければ、おかしいんじゃないかと思ってしまう。
まー、でも。
そんな風にみんなでやる(共有できる)ものって、現代武道のようになって、夢を求める人にとっては魅力の無いものになってしまうのかも知れないけれど。。。