“気”を特色とする武術がある。太極拳もその一つだ。
しかし、そもそも「気」とは何なのだろうか?
科学的なアプローチとしては赤外線、生体磁気などの説もあるが、はっきりとした解明はされていない。
またこれは、「気」を何らかのエネルギーとして捉えた上での説になる。
太極拳をやっていると人に話すと、
「気で倒すってヤツでしょ?」
などと言われることがある。
中には「はぁ~ッ!」と、『ドラゴンボール』のカメハメ波の手振りをしておちゃらける人もいる。
ともかく、
「気」とは何かエネルギーのようなもので、中国武術ではそれを操って攻防するというイメージを抱いている人が少なくない。
実際に修行している人の中にも、漫画のイメージほどではないにしても、体を鍛えなくても「気」の鍛錬によって攻防一体の身体や技術が備わると考えている人が居て、これまた少数ではないようだ。
ではそのエネルギーのような「気」は存在するのか、というと、きちんと説明し証明できる人は居ないのではないだろうか?
訓練によって誰でも見えるようになるという人も居るけれど、果たしてそれが「気」であるのか、また本当に存在して見えているのか、どうもアヤシイ。。
例えれば、霊魂が見えるという人が、
「あるんだからしょうがない、見えるんだからしょうがない」
と主張しているような世界に思えてしまう。
片や、そういった摩訶不思議なものではなく、気持ちなどの「意」や「気」であって、技の目的や方向性、心理的なかけひきへの応用などに使うものとする考え方もある。
あるいは、心理的部分と若干重なるが、「気」を一つの概念として、その概念を持つことによって身体操作に変化をもたらしたり、パワーが増したり、といった効果を狙うためのものとする考え方もあるようだ。
いずれにせよ、「気」の捉え方は武術の種類や流派によって幾らか異なる気がする。
もし、「気」の扱いや方法にそれぞれ違いがあって、それぞれが秘密にしているなら、なかなかこれが明かになることは無いだろう。
仮にどこかで誰かが明かしたとしても、それが本当の説明であるのかどうかは判らないのだ。
ところで、「本当」という言葉でさえ、
「本当とはなんだろう?」
と思ってしまう。
まぁ、僕的な結論を言えば、本当のことは一つでは無いと思っている。
つまり、答えは一つとは限らないということだ。
だから今回取り上げた「気」にしても、武術や流派によってそれぞれ持っているものがあって、余所とは違っていても、有効なものであれば「本当」だろうと思う。
しかし、素人や初心者を誤魔化すような内容のものなら別だ。
それぞれがどうという細かいことは判らないけれど、これから学ぼうという人や疑問を抱いている人は、時には立ち止まって考えてみた方がいいかも知れない。
個人的には、「気」をエネルギー的に捉えているものを、僕はあまり信じていない。
「気」の技術はあると思うが、それはエネルギーのようなものを体内で操る術では無いと思っている。
だが意念や生体エネルギーなどのイメージで太極拳をやることに異を唱える気はないし、反対でも無い。
そういう内観的な修練法もあるのは事実だと思うし、エネルギー的な「気」があるのかどうかはともかく、逆に、その方法の有効性を否定する材料も特に無いからだ。
ただ、「判らないもの」を宣伝材料にして、さも知っているようにして教えているのではないかということは、疑ってみるべきだと思っている。
また霊魂の例えになるが、霊魂を信じている人は偽霊能力者のことも信じてしまいやすいものだし、騙された事例は過去にたくさんあるではないか。
…とは言え、
かく言う僕も、同じ期待を抱いて太極拳を始めた一人なので、気持ちはよく解る。
疑ってみたとしても、露骨にそういう態度を出したり、ずけずけ訊ねたりするのは失礼になってしまうので、なかなかできない。
だから自分なりの客観的な見方、判断基準を養うしかない。
「気」に拘らずとも得るものがあると思えば学び続ければいい。
さて、ここで少しアプローチを変えてみる。
「気」の鍛錬によって、攻撃の威力が増し、防御能力が高まり、打たれてもビクともしない強い身体になれるとしよう。
そうなれたとして、その結果と、空手などで外功的に体を鍛えた結果とに、違いはあるのだろうか?
本などでは、空手や南派拳法は筋肉を鍛え、北派拳法や特に内家拳では「気」を用いて内蔵を鍛えるというようなことが書かれている。
内功を積めば、一見鍛えているようには見えない人が、鍛えた人の体を打っても、内蔵を傷つけるような貫通力のある一撃をおみまいすることができるとされている。
そして中国武術に惹かれた人は大抵、それを信じて修練している。
本当にそうなのだろうか…?
太極拳や中国武術でも、技の練習で約束組手をやる際、相手に打たせるときにはその部位に力を入れるはずだ。
それを「気を込める」と表現する人でも、体の現象としては、例えば腹を打たれるときには、それに備えてくっと力を入れ腹筋を固めるはずだろう。
ならば、腹筋を筋トレで鍛えた人が同じことをやった場合、違いはあるのだろうか?
また、「気」というものが操れるようになったとして、何になりたいというのだろう?
“超人”だろうか?
老人になっても衰えない武術を身につけて仙人のようになりたいと思っている人だって、ある意味それは、目指しているものは「超人」ではないか…?
けれど現実的に超人という言葉を考えるに、プロのアスリートやそれに準じる能力のある者は、みんな常人に比べれば遥かに高い能力を有した「超人」だと言えるだろう。
それでも、
ヒトで無くなるほどヒトからかけ離れることはできない。
昔、梶原漫画でもよく取り上げられたが、力道山がヤクザと喧嘩し、ナイフで腹部を刺されて命を落としたのは有名な話だ。
力道山が実際にどれほど強かったかはよく知らないが、やはり強靱な肉体を持っていたことは事実だろう。
それでも、油断や傲りや過信によって不幸な結果になってしまったのだ。
中国武術をやる人には、
「肉体を鍛えなくても、ヒトには鍛えようのない場所がある」
「筋肉は必要ない」
「返って邪魔になる」
というようなことを言う人が少なくない。
確かに、鍛えようのない部位もあるし、力道山のようにナイフで刺されてしまったことを考えれば、
「鍛えて何になる?」
と言いたいのも解る。
しかし、鍛えていなかったら、その場で命を落としたかも知れない。
また、筋肉を否定する一方で、
「気を練ることによって少々の打撃は何でもなくなる」
とも言ったりする。
「気」とはそれほど便利なものだろうか…?
そう思っている人も、一応は、
少々ではない打撃のことも考えておいた方がいいと思うが…。。