高校を卒業して間がないある日、僕は中国拳法の道場を訪れた。
ほとんどがひやかし気分での訪問。
何故こんな気持ちだったのか。
もちろん中国拳法に興味はあったし、だからこそ見学に来たのだが、当時、日本に道場らしき道場があるとは思っていなかった。
つまりそれは、高名な武術研究家、松田隆智さんからの影響だった。
確かサンポウブックスの『太極拳入門』で、陳家太極拳は伝承者が少なく日本ではほとんど学ぶことができないというようなことが書かれてあって、同様に中国拳法はどれもまともに学ぶことはできないのだと思っていた。
特に、陳家以外の太極拳は武術としての色合いを失っているとのことだったので、期待が膨らむはずもない。
それよりずっと前、小・中学生の頃、漫画雑誌に広告を載せていた通信講座に“けいぎけん”とルビをふった形意拳の講座があって、案内書を取り寄せたことがあった。
ちょっと記憶に自信がないが、剛柔流空手の通信講座と同じところだったかも知れない。
案内書に、八卦掌を解説した小冊子が付いていたような気もする。
そんなことも遠い記憶の彼方だったが、ともかく、冒頭の中国拳法道場を訪れたのも、通信講座の広告がきっかけだった。
…で、その1週間前、
実は空手の道場にも行った。
高校を卒業し、浪人して、バイトをしていた僕は自分のお金が入るようになって、空手を習うつもりで道場を探していた。
そして近所で、学校の体育館を借りて教えているところを見つけたので、見学がてら道着を持って練習に参加させてもらった。
中学のときにも空手を習っていたが、親に内緒で小遣いや食費を削って通っていて、お金が続かなくなって月謝を滞納してしまい、行きづらくなってやめてしまった。。
2年近く何とか頑張ったのだけど、2ヶ月に一度ある昇段試験を毎回受けることが出来なくて、後から入った人が初段を取っても、僕は緑帯(3級)止まりだった。
その後は、ほとんど一人で、甘っちょろい練習を続けていた。
そしてこのとき見学(というか一日体験入門?)させてもらった道場は、中学のときに習ったのとは違う流派だったけど、練習内容にあまり差を感じなくて入りやすい雰囲気だった。
30代くらいの師範代のような人から、
「どこかで習ってたの?」
と聞かれて、
「はい。中学生のときに〇〇流を習ってました」
と、期間とやめた事情を説明すると、
「じゃあ、見たところ基本は出来てるみたいだから、ウチでも緑帯から始めてもらっていいよ」
と言ってもらえた。
「え!本当ですか!?」
てっきり一からやり直しだと思っていた僕はラッキーな思いで、
「じゃあ来週からお世話になります!」
と即決して帰って来た。
そして、もしかしたらその日の内だったかも知れない、
漫画雑誌にあった中国拳法の通信講座の広告に目が止まったのは…。
当時よく見る広告だった。
少年時代には興味を持ったけど、その後は空手の道場にも通った経験があって、通信講座などで身につくはずがないことくらいは判っていた。
しかし、つい気持ちが動いたのは、
“支部道場あり”
と書かれていて、そこに“大阪”の文字があったからだった。
思わずすぐ電話で問い合わせた。
すると大阪支部は2箇所あるとのことで、そのうちの1つは自宅から4駅ほどのところだった。
支部にもすぐ電話を入れて、練習日を聞き、見学の申し込みをした。
前述のように、太極拳にはあまり期待していなかった。
ただ、太極拳以外に、形意拳や他の拳法も教えているらしい。
(そうだ、形意拳はどうなのか…!?)
太極拳は陳家じゃないけど、形意拳は、派によって武術色が失せているなんてことは書かれてなかったし、そっちがイケてればいいんじゃないか?
それに中国拳法って動きが面白そうだし、ダメモトで、ちょっと覚えておけば芸の一つくらいにはなるだろう。。
…てな、短絡かつヨコシマな気持ちで、訊ねたのだった。。
前置きが長くなったが、
それでようやく、中国拳法の支部道場見学の日。
玄関に迎えてくれた男性は、僕とそれほど年が変わらない感じで、
(あ、お弟子さんかな?指導員の方なのかも?)
と思った。
そこは、とある商売をされている場所の一郭で、あまり広くもないところで、確か10人くらいの人たちが、静かに、おどろおどろしく、太極拳のようなものの練習をしていた。どちらかといえば大人しそうな、文化系の顔立ちの人が目立つのに、こうして密かに拳法を習ってるなんて、どれくらいの腕前なんだろう?
(人を見かけでナメてかかるとトンでもない目に遭うかもな…)
なんて思った。
例によって空手道着を持って行き、練習に参加させていただいた。
何をやったのかよく憶えていないけど、たぶん、準備運動のようなものと、太極拳の型の最初を少しやったのだと思う。
そのうち、指導者の男性が、
「空手やってたんなら、型でもやってみせてよ」
と言ったので、僕は恥ずかしげも無く、その場で、抜塞大(バッサイダイ)という型をやって見せた。
この型は、中学のとき習っていた流派では初段以上の人がやっていた型だが、一応、道場に居た期間は同等だったので教えてもらっていた。
実はこのとき、僕より1~2週先に入った空手経験者が居て、後に仲のいい兄弟弟子の一人になるのだが、僕の型演武が下手なのを内心笑って見ていたそうだ。
そんなことを知る由もなく自分ではマシなつもりでいたから、今考えると恥ずかしい。
型が終わるとみんなパチパチと拍手。
指導者の男性は次に、
「まぁ、突きくらいは、やってたなりに出来るんやろ。僕の腹突いてみ」
と言った。
「え?本当にいいんですか?一歩踏み込んで突くんですか?」
「そうそう。まぁ、一応みぞおちは外して、ここね」
と、みぞおちより少し下のお腹のあたりをポンポンと叩いて見せた。
(まぁいいや。自信があるから言ってるんだろう)
あまり深く考えずに、その人の前で空手の前屈立ちになって構えて、一歩出ながら前足で思い切り床を踏んでダァ~ンッと突いた。
男性はフンッと軽く力んだように見えたが、自分の拳がまともに入った感じが無く、弾かれたような感触で、効かなかった。
男性はけろっとした顔で、
「じゃあ、今度は僕な」
(げっ…!)
こっちはそんな芸当出来ないよ!…と思ったが、先に一発突かせてもらってる以上、仕方がない。
喰らうのも経験。まぁ、うずくまるくらいの覚悟はしよう。。
すると、こっちの腹に手を当て、
「僕はここからな」
(…え!?)
次の瞬間、クッと突かれると、僕は大きく弾かれて1メートルほど後ろにあった壁に背中を叩きつけられていた。
「???」
突かれた腹は痛くなかったが、予想以上の衝撃に何をされたのか一瞬解らず、ただ目を丸くした。
そして我に返ると、
「面白い!」
と感動した。
(もしかしてこれって発勁?)
松田さんの本では、発勁は秘伝中の秘伝だというようなことが書かれてあった。
まさかこんな若い人が…?
しかしこれが発勁でも発勁でなくても、ともかくこんなのは空手のときに経験が無かった。
あっさり僕の興味はこの流派の武術に移った。
僕はバイトでここの練習日に都合が悪かったので、図々しくも、他の曜日に練習できないかと訊ねた。
指導者の男性は気軽に他の練習生を見回して、
「じゃあ、〇曜日にも練習することにしたら、きみ来るか?きみはどうや?」
と聞いて、何人か確認が取れると、じゃあそうしよう、ということになった。
「すいません、どうも。ありがとうございます!」
「いやいや。まぁ、みんなも練習したいやろうし…」
ナント…。
中国拳法を本格的に習うのはあきらめていたのに、こんなに簡単に見つかるなんて。
「…ところで、ここの先生は今日はどちらに?」
「え?先生ボクやで!」
「そ、そうなんですか。失礼しました」
指導員の一人だと思っていた若い男性が先生だった。
帰ってからは、中国拳法を習える嬉しさでウキウキ状態。
道場に通い始めるとあっという間にどんどんのめり込んでいった。
その前に見学に行った空手の道場に、断りの連絡を入れるのを忘れていたのに気づいたのは、2~3週間経ってからだった。
結局、バツが悪くて、そのまま連絡を入れなかった。。