中国拳法、武術、格闘技など、徒然気ままに…

太極拳ってど〜よ!?

徒然エッセイ

第二期修行03:マンツーマンでの初稽古

投稿日:2016年12月14日

T先生と再会して、武術をやり直せることは、本当に嬉しかった。
けれど過度な期待を抱いていたわけではなかった。
怪我の後遺症や年齢的なこともあったので、中途半端だった部分を幾らか埋められれば、それでいい。
昔やりかけた“力の鍛錬”の意味と、“奥”と言われるような技に、少しでも触れられれば、自分自身を大方は納得させられる。
それに、
『全部を教わることは無理だろう』
――と、思っていた。

20代までの僕は、普通に月謝を払って習っていたに過ぎない。
先生たちのように東京や千葉に通ってまで習ったわけではないし、ましてや台湾や中国にまで行くほどの意欲もなかった。
いや、そこは、正直に言うと、中国拳法には興味を持っていても、わざわざ自ら進んで外国人に習おうとまでは思っていなかったのだ。
中国武術には嘘が多いし、それでなくても武術を奥まで習うのには金がかかる。言葉も文化も違う中国人にカモにされたら嫌だし、同じ日本人に習えるなら、その方がいい、と。
そして、金がかかる武術に、僕はお金をかけてきたわけではなかったし、どれくらいのお金をかければいいかもわからない。聞くところによると家を買えるくらいの金を払って習ったという話もあるから、「僕には無理だ」と思っていたのだ。

また、僕はT先生を、その辺の武道家や格闘家よりも強い――とまでは評価していなかった。
以前、少林寺拳法(不動禅)の人と出会った話を書いたが、そのときはその人の方が上だろうと思ったし、兄弟弟子だったK阪さんのことも、本気で喧嘩をすればT先生よりも強いんじゃないかと思っていた。
あれから年月が経っているので、きっと上達しているに違いないが、とんでもなく変わっているはずもない。

そのT先生に、何故また習おうとしているのかは、簡単な理由だった。
まず西郡先生から伝えられている技が、僕が見る限り、他派より納得できる部分が多かったこと。
そして直接の師匠であるT先生のことを、少なくとも僕よりはずっと上手いと思っていたからだ。僕が知らないことを知っていて、僕が出来ないことを出来る人だと思っていたからだ。
それに僕自身は、大したことないフツーの中高年になってしまっている。
何も名人達人と思える人に習わなくても、一定以上の知識と技術があって、指導力があるなら、教えを請うのに充分ではないか。
そして“縁”というものも大事にしたかった。
理に適ったことを伝えてくれるならば、誰に習うかよりも、自分自身がそれをきちんと受け継いで身につけられるかだろう。
この世界を見渡せば、名のある“老師”に“基本の基本”のような型をたくさん習っただけで満足し自慢げに語る人や、現実的ではない技を出来る気になって、妄想知識ばかり膨らんで頭でっかちになっているお馬鹿さんが少なくない。
そんな風にならずに、まがりなりにも「武の嗜みがある」と言える一人の男になれれば、それでいい。そんな自信を取り戻すことができれば、それだけでも武術を再開した甲斐があるというものだった。

さて、年が明けて1月。T先生との再会後、約束通り最初の稽古日。
T先生が勤務する学校に、放課後にお邪魔して稽古することになっていた。
確か、稽古日は、基本的に水曜日で、この日も水曜日だったと思う。
学校が始まってから最初の水曜日だから、第2週目になるだろう。
ちなみにこのあとは、基本は水曜日だが、T先生の都合によって火曜日か木曜日になることがあり、ごくまれに月曜日ということもあった。

その頃、T先生が勤務していたのは、大阪市内のA駅にある視覚障害者のための学校で、中等部(中学部)で国語を教えているとのことだった。
写真は、ネット検索で見つけたもの。

学校名や、地名などは、大阪の人でなくとも、ちょっと調べれば大体判ってしまいそうなものだが、一応はイニシャル等を使って伏せておく。

あとで判ったことだが、僕は以前、すぐ隣のN駅に住んでいて、僕が住んでいた頃にT先生は、すでにその学校に赴任して来ていたらしい。
JRのA駅付近にあるユニクロに、当時同棲していた彼女と時々行っていたので、もしかしたら気づかずにすれ違ったことがあったかも知れない。
さらに言うと、僕が住んでいたN駅には有名なN公園があって、その公園を挟んだ向こう側には、変わりなければS先生が住んでいるはずだった。
僕はS先生の住所を知らなかったが、自転車で行けるような距離なので、S先生の道場を探して訪ねてみようかと思ったこともあった。

学校の見取り図は大まかなもの。これは自分で作成した。
写真では校門から階段が見えているので、校門をもう少し広く描くべきだったかな。まあ、でも他も、大きさは必ずしも合っていないと思うので。
学校の全体図はわからない。僕は校門から入って、大体この図にあるような範囲しか行動していないから、その部分だけを描いた。
ちなみにこの見取り図は、地図のように上を「北」にはしていない。この図の右方が北の方角になる。
それと実は、主な稽古場になっていた講堂が、この図の範囲に入っていないのだが、まあ、判ればいいのでこのままにした。
「校舎2」の2階に講堂が2つあり、描かれてある範囲の上に一つ。そして柔道場の向こう側の上にある講堂が、T先生との主な稽古場だった。
とにかく講堂は、その辺にあるということで。
それよりも、校門から靴置き場周辺で今後も色々書きたいことがあったので、このような図になった。

で、この初稽古の日は、学校に着いたら2階の事務所で「中等部のT先生」と言って呼び出してもらうように、と予め指示されていたので、まずはその通りにして、来客用の番号札をもらって待った。
天王寺のときと同様、また10分か15分ほどして、T先生がのそのそと2階の廊下伝いに現れた。
挨拶をして、階下に降り、靴置き場のあたりから上履きに履き替えて、渡り廊下を通って「校舎2」へ。そして廊下奥の階段から件の講堂。
(こんな広いところを二人で使うなんて贅沢だな。いいのかな……)
などと思いつつ、着替えて、稽古開始の礼。

1月なので当然、寒い中だが、二人とも薄着だった。
T先生は、下はジャージで、上は長袖のトレーナーだったと思う。たぶん肌着と2枚だろう。
「体が変わった」と言っていたが、なるほど、本当に全然違っていた。
肩の筋肉が大きく発達していて、前腕が太い。
昔はコロッとした丸い体つきだったのが、心持ちスッキリ。腹は相変わらず出ていたが、後ろから見れば逆三角形の体型だった。
僕は上下お揃いのジャージ。上は、中にTシャツ1枚。
「ま、ひとまず太極拳やってみ。十四勢まででええから」
「はい。わかりました」

――そして、演武が終わると、ちょっと感心した顔をして、
「太極拳は大体できてるな。なかなか上手いで。僕ら師匠連中は別として、S一門の中では上から数えて数人以内に入ると思うわ」
と言ってくれた。
「えっ。ホンマですか?」
僕は素直に嬉しかった。
利き手を怪我して以降、拳法の稽古は何年もほとんどしなくなっていたが、その間、武術のことをまったく考えなかったわけではない。太極拳だって、ふと思いついて体を動かしてみることくらいはあった。
もちろんそんなものはまともな稽古ではないけれど、一人での稽古を再開してからは、気づいたことや工夫したことを型に取り入れていた。
「……ただ、な」
「はい」
「この前も言ったように、K拳をやるようになってから太極拳もそれに合わせて少し変わったんやわ。立ち方、姿勢もそうやけど、力の使い方、出し方もそうやな。だから今のそのやり方は変えてもらうことになるけど、ちょっと混乱するかも知れへんな」
「そうなんですか……」

そして姿勢の説明。弓歩で立てという指示。
「基本的には同じやけど、そこから胸を張る」
「えっ、胸をですか!?」
「そう。そして、腰から尾骨のあたりを反らせて、後ろにくっと上げる感じにする」
「…………」
「ちょっと意外やろ?」
「ええ、まあ。でもこれって沖縄空手みたいですよね?」
「そうなんかな? まあ、僕は空手のことはようわからんけど」
「K拳って、南派拳法なんですか?」
「いーや。北派やと聞いてるで。これも内家拳の一種やてな」
(……そう言えば)
僕はちょっと思い出した。いや、この記憶が合っているのかどうか判らないが、僕が昔、道場を休むことが増えたとき、兄弟弟子のK阪さんが金鷹拳の新しい型を教えてくれて、そのときに姿勢も変わったとかで、この姿勢のことも教えてくれた気がする。

ついでに今の視点で、姿勢のことを少し書いておこう。
ここでは「含胸抜背」と「収臀」に着目する。
先日の『ボディくん』を使って姿勢を作ってみた。細かいところはうまく形を作れなかったが、雰囲気は大体わかってもらえるだろう。

まず、自然体で立った姿。この人形の姿勢はちょっと極端なのだが、実際にこれくらい、まるで老人のような立ち方になっている人もいる。
当流では、昔からごく当たり前に「正しい」と言われてきた姿勢、つまり胸を張って背筋をピンと伸ばした姿勢で行うのだが、実はそれよりも強く張るので、極端に言えば、鳩胸、アヒル尻のようなイメージだ。
そしてこれは、どちらかと言えば日本武術や沖縄空手、中国武術でも南派拳法に多く見られるような姿勢ではないかと思う。
僕は研究者ではないので、実際の傾向や分類はよくわからないが。

そして、ロウ膝拗歩の完成姿勢で比べてみると、次のようになる。

従来の姿勢だと、胸をへこませているため背中が丸くなってしまうが、これでは前方に対する押す力や踏ん張る力が発揮しにくいと思う。
もちろん、拳撃にしろ掌打にしろ「押す」のではないが、姿勢的に押す力が弱くては威力が出ない。
また、尻を前方内側に収めるようにして、下腹が少し上を向くような姿勢を取ると、踏ん張りが利かない。
要するに、太極拳を始めとする「力を抜け」という拳法は、姿勢そのものが「力が抜ける」あるいは「力が入らない」姿勢になっているように思う。

例えば、深呼吸するのを想像してみるといい。
両足を肩幅程度に拡げて立ち、両手を下げた自然な姿勢から、吸うときは胸を膨らませながら両手を拡げて背筋を伸ばす。吐くときは胸がへこんでいくのでそれに合わせて両手を体の前に持っていって背中を丸める。
このように深呼吸では、吸ったときには体が張り、吐いたときには体が緩むような状態になる。
その緩んだ状態を、太極拳などに置き換えれば、「腹式呼吸」と「丹田」に意識を置いた体のコントロールを行って、防御においては力に力で対抗せず、攻撃においては瞬発的な力を出す、ということになるだろう。

だがそれを、そのようにできる人がどれほど居るだろうか?

この人形のロウ膝拗歩の姿勢を見ても、右の方が、強い打撃ができ、踏ん張りの利く姿勢に見えないだろうか……?

――話を稽古に戻そう。
「きみは昔にも力の鍛錬を少しやりかけてたけど、それより前は、力を抜けと言ってた時期もあったよな。それも間違いやないけど、やっぱ武術やねんから、力も要るわけや。その力の出し方は、ウチのは“発力”になるんや。ウチで言う“発力”のためには、こういう姿勢が大事になるんや」
「なるほど。ただちょっとお聞きしたいんですけどね。“発力”という言葉は、昔にも聞きましたが、結局、発勁と発力は違うものなんでしょうかねぇ?」
「んー。そこは説明が難しいな。そもそも発勁自体も色々あるみたいやしな。たぶん巷で言われている発勁はこういうもんやろ、というのはあっても、僕らは“発勁”を習ったわけやないしな……」
「ふぅむ……」
「ただな、映像なんかで見ると、発勁、発勁言うて、相手を飛ばしたりしてるけど、あれはどうかな。例えばな……」
T先生は僕に突きを要求した。僕がゆっくりと突きの動作で向かっていくと、それを捌いて“按”で押し飛ばした。
僕は姿勢を崩されたところを、ダダダダーッと3メートルほど後方に押し飛ばされて、転げてしまった。
「――と、いうようにや。飛ばすのは簡単なんやけど、それでは相手が起き上がって来れんような打撃にはならんやろ」
「そうですね。飛ばすのは、見せるためと、相手の安全のためということはあるにせよ、本当はどんなふうに打つか、そういうことをやってる人は、みんな、わかってるんでしょうかねぇ?」
「で、今のやり方やと……」
僕の胸に拳を当てて、くっと突いた。今度は二、三歩ダダッと後退しただけだったが、突き刺さるような衝撃で蹲ってしまいそうになった。
ちなみにその痛みは数日取れなかった。
奇しくも昔、体験入門したときと同じようなことをされてしまった。
当時は、飛ばされて「面白い!」と思って入門したわけだった。
僕も相手が素人なら、ちょっと飛ばして見せるくらいのことはやれるようになっていたが、本当の威力というものには自信が無かった。
まして、体が鈍ってからは、素人相手にでも、できるものかどうか?
今度こそはそこを埋めたいものだと思った。

この日は他にも色々、昔とやり方が変わった部分を説明されて、稽古より説明の方が長くなってしまったが、1時間半ほどがあっという間に過ぎた。
その間に逆手などもかけられたが、かけ方が上手くて、痛いのナンノ。
(そうかぁ……。昔も柔術系は上手かったけど、先生もあれからさらに上達してるんだなぁ)
と、年月の流れを感じて感慨深い思いだった。
「で、どうする?」
「と言いますと?」
「きみ、太極拳をやり直したいということやったから、太極拳だけ教えてもええんやけど、他のもやりたいんやったらそういう稽古になるし……」
「そりゃあ、教えてもらえるならやりたいですよ、K拳も。ただ、ブランクがあるだけでなく、怪我の後遺症で、満足にできるのかどうかは不安もありますけど……」
「そうか。まあ、とにかく、これからまた一緒にやろか!」
「はい。ありがとうございます。よろしくお願いします!」
「じゃあ、今日はここまでにして、移動してまたちょっと一杯やろか」
「わかりました。ありがとうございました」

帰りはまたしばらく待たされたように思う。それからT先生とJR駅に向かい、駅前の安い小料理屋に入って、ビールで乾杯。
「……それで先生、月謝のことなんですけど」
「その前に。僕は公務員やから、本当は謝礼をもらったらあかんねん」
「いや、まあ、それは、ナイショということで……」
この程度の謝礼もダメなのかな、と思いつつ。
「うん。そしたら、月に何回やるかやな」
「それは先生のご都合で」
僕は普段、家で仕事をしているので、平日の放課後に訪ねていくことが可能であることは、前に伝えてあった。
「僕の都合でええのやったら、そうやな、月3回ってとこかな。学校があるから、毎週は無理かも知れへん。ひとまず基本は月3回。やれるときは4回やろか。その代わり2回しかでけへんときもあると思う」
「わかりました。それで結構です」
「そしたら、“イチ”でええわ」
T先生は人差し指を立てて言った。
「ありがとうございます。1万円ということでよろしいのですね?」
僕は金額のところだけ声を細めて、確認した。
T先生が頷くと、では早速ですが、今日はハダカで申し訳ありませんが、先にお渡ししてよろしいでしょうか、と聞いて、その1万円を渡した。
金額がわからなかったから封筒を用意していなかったが、目の前ででも、やはり封筒に入れて渡すべきだったかな、別の日に渡した方が良かったかな、などと気を遣いつつ。
それから、この日は初稽古だったから、僕の記憶では、移動してどこかもう一軒行きませんか、と誘ったと思うが、「ここは僕が」と伝票を手に取ると、「はい!」と即座にT先生は返事をした。
意味的には、返事の「はい」ではなくて「どうぞ」のようだった。
つまり、
「今日からあんたはまた僕の弟子やねんから、師匠の分を出すのが当然。今後はどうぞ出して下さい」
――と言っているように思えた。
これも正直言うが、僕としては、何年も空いていたのに、戻ることを許してもらえて、また教えてもらえるのだから、それまでの不義理を埋めるような意味で、時々はご馳走しようと思っていた。
特にまだ再会して日が浅いから、しばらくは帰りに奢るつもりでいた。
だから、天王寺で会ったときのように(あ、そう言えばこの日も言われたのだったが)、
『僕にお酒を奢って何を得ようとしてるんや?』
と言われるような、下心があったわけではなかった。
だから「毎回」のつもりは無かったが、T先生の受け取り方は、僕がお酒を奢ることで、気が緩んだ先生が、“奥”のことや大事なことをぽろっと漏らすことを期待していると思っているようで、稽古帰りに毎回ご馳走するのが当たり前のノリになってしまった。
そして、まあ、僕もお酒は嫌いではないし、この頃はT先生に奢るくらいの稼ぎはあったから、流れのままにそうなっていった。

……ただ、それはまだいい。
このあとは、なかなか大変な日々になっていくのだった。

(つづく)

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