20代半ば頃、しばらくアルバイトをしていたとある会社で、極真空手の人と出会った。
特別親しくなったわけではなかったが、何度か武道の話をした。
その頃僕は極真空手を、パワーはともかく技としてあまり認めていなかったが、それでも子供の頃にあこがれた流派でもあり、まったく興味がないわけではなかった。
(※2007-02-15『空手に感じた限界』参照)
その極真の人は当時30歳くらいで、段位は3段か4段だと言っていたと思う。
指導員でもあり警察官にも教えているとのことだった。
印象としては、大会で上位に食い込むような人たちに比べれば割と華奢な体つきで、
「極真ってごつい人ばかりのイメージだったけど、こういう人もいるんだな…」
と思った。
何せ『空手バカ一代』や『地上最強の空手』のイメージがバリバリに色濃く残っていた時代のことだ。
あるとき会社で、お菓子やジュースを買ってきて20人ほどで親睦会&茶話会のようなことをやった。
そのとき極真の人が、余興に10円玉を曲げてみせると言って前に出た。
片手に持った10円玉にもう一方の手の親指を押し当てて、
「くぉーっ」
と唸りながら何度か力んだ。
顔を真っ赤にしながら、1分近くかかったのではないだろうか。
ようやく離した10円玉はテーブルの上でかすかに反っていた。
周りは微妙な反応。。
まぁそれでも、10円玉は硬い。
すかさず僕は気遣って、
「凄いですね!確かにちょっと反ってますね。こんなものよく曲げられますね!」
とフォローした。
極真の人は表情をゆるめ、気を良くして席に戻った。
そのあと、
「大山倍達さんは片手でぐにゃりと曲げるそうですが、本当ですか?」
と聞くと、
「ああ、まぁね。でもあれは論外やな。凄いなんてもんやないわ。僕なんかはせいぜいこれくらいしかでけへんけどな」
と答えてくれた。
ちなみに、『空手バカ一代』に紹介されていたような弟子の人だと、確か、両手指一本ずつだけで逆立ちする人や、天井の桟に親指と人差し指だけで捕まってぶら下がる人などが居て、指導員クラスだとそういうとんでもないパワーの人ばかりかと思っていた。
そして、なごんだついでに、ちょっと言いにくいことを言ってしまった。
「ところで、極真の試合って、何であんなに足を止めてドスンドスン胸や腹ばかりド突き合うんですか?」
するとその人は苦笑しながら、
「…まぁ、実力伯仲してるからな」
と言った。
僕は、
「なるほど」
と返して、それ以上は重ねて聞かなかった。
そんなものかと思いつつあまり答えにはなっていない気がしたのだが、それ以上突っ込んで訊くのも気が退けた。
しかし、後でよくよく考えてみると“実力伯仲”という言葉にはなかなか含蓄があると思った。
想像したのだ。
何にせよ、あのようなルールで、実力の近い者同士が試合をした場合どうなるか、また、他にどのようなやり方があるかを…。
しばらく考えて本当に「なるほど」と思った。
工夫の余地はあるだろうが、ああなってしまうのは当然といえば当然かと。
中国武術や古武術をやっている人たちの間では、現代武道を疑問視する向きが多い。
ここではひとまず空手に主眼を置くが、特に極真やフルコンの試合でドスドスと胸や腹を打ち合っているのを見て、技もへったくれも無いと思う人は多いだろう。
僕も子供の頃にそう思って、空手に限界を感じてしまった。
しかし例えば極真では、顔面への攻撃、掴み、逆手、関節、肘打ち、投げ…などが禁止となっている。
また、試合では審判からお互い攻勢に出るように促される。
実力が近い者同士が向き合えば、普通の技は通用しにくいし、攻撃のパターンが限られてきてしまって、ああなるのは当然なのかも知れない。
つまりは見た目が単純な突き・蹴りの応酬になってしまい、技もへったくれもないことになってしまうのだが、イコール、本当に技を知らないということにはならないのだ。
太極拳をやっている人たちは、ああいう試合を、
「武術的ではない」
と、あまり認めたがらない。
そして、
「試合で勝つ自信は無いが、何をやっても良ければ勝つ自信はある」
という話をよく聞く。
もちろん、武術の目的として、何でもありの状態で勝つことを目指して修練するわけだから、考え方として基本的にそれは正しい。
しかし、だからといって試合そのものを否定的に見るのはどうだろうか。
ルールのある試合を否定しながら、推手名人を崇めたりする。
推手だって限定された約束上での攻防だし、上級者が初心者を跳ね飛ばすのを見ただけでその人の真の強さが量れるだろうか?
僕もかつては試合に疑問を抱いていた一人だが、競い合うことも向上心をかき立てるのに有効だろうし、また、推手や組手同様、試合も方便として考えるならば、限られた中ではあっても技を試し合い競い合うことは、プラスになる面もあると思う。
そして試合に使われる技が、本来の技術に内包されるものであるなら、ある程度はそういうこともできなければならないという気がする。
もちろん試合そのものが目的になってしまうのはどうかと思う。
そればかりをやっていると、本来の技術から遠のいてしまう恐れもある。
太極拳でなくとも、武術的観点からの一番の危惧はそこだろう。
しかし発見もあるかも知れない。
試合を遊びだと揶揄する意見もあるが、狩りをする野生の肉食動物は、子供の時に遊びの中で狩りの技術を覚えるではないか。
拳足を鍛え圧倒的なパワーを身につけるという思想のフルコン系空手は、やはりそれだけで充分強い。
圧倒的なパワーの前で、型を練ることで強くなれると思っている人たちは、自分たちが武術だと思っている太極拳の理屈をどれほど実践できるのだろうか。。
実戦を想像するに、相手にも何らかの心得があれば、太極拳の型通りの技など使えるはずがない(少なくとも僕はそう思う)。
では何のために型があるのかという話になってしまうのだが、それはまぁ、ひとまず置くとして、ともかく、技術的に相手の力をある程度無効化できたとしても、乱戦乱闘の中ではバシバシ打ち合ったりすることもあるわけで、そういうことにも備えておくことが必要ではないだろうか…?
“実力伯仲”
この言葉を吐いた極真の人が、実際にどれほどの意味を込めて言ったのかはわからないが、しかしおかげで、それまで面白味を感じなかった空手や柔道の試合に対しても、見る目が変わった。
リング上の格闘技もよく見るようになった。
そうして改めて見ると、参考になるところも多い。
もし、中国武術や古武術をやっていて、かつての僕もそうだったが、現代武道や格闘技を否定的に見ている人が居たら、視点を変えて改めて見直してみるのも修行のプラスになるのではないだろうか。