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太極拳ってど〜よ!?

徒然エッセイ

一時復帰とその後

投稿日:2009年7月26日

T宮と再会したのと同じ頃、僕は2年近くつき合っていた女の子と別れてしまった。
実は一緒に住むつもりで少しばかり無理をして部屋を引っ越したのに、ある日突然、無駄になってしまった。
まー経緯を詳しく書いても仕方がないので省くけれど、僕からすれば裏切りに合ったかたちだった。
でも、彼女はある職業を目指して、それに向かって一生懸命努力をしていて、そのことは認めていたので、裏切られた腹立たしさとは別に、自分はだらだらと水商売を続けて何をしているんだろう?…という気になった。
それまでだって、やはり、お客に気を遣い、店の女の子にも気を遣い…という仕事が、若い自分にとってやりがいのある仕事かと言えば、そうではなかった。
そんなことを思い始めると、毎日が苦痛になり、とても水商売を続けていられるような心の状態では無くなってしまった。
そして、
T宮と連絡が取れなくなって、少し後だったと思うが、僕は店をやめてしまった。

それからはグラフィックデザインの仕事に就こうと面接を受けて廻ったが、すでに20代半ばの僕をどこも雇ってはくれず、ようやく小さな印刷会社に拾ってもらった。
社員20名ほどの会社だったが、デザインの部署を作ったばかりで、僕がイラストを描けることも少しばかり買ってもらえたようで、一応はデザイナーの端くれを名乗れるようになった。
しかし残念ながら、ほとんどが「版下」と呼ばれる印刷原稿の作業で、デザインらしい仕事をやることは少なかった。
でもチラシやパンフレットのイラストはよく描かされ、それはまぁ、楽しかった。

問題は人間関係と給料。

まずデザイン室のチーフと反りが合わなかった。
水商売をやめて中途採用された僕を、何とかしてやろうとしてくれていたのかも知れないが、そういった親切心よりも、足を引っ張られることへの懸念や、場を仕切ろうとする押しつけなど、とにかく言葉や態度がねちっこい。
終いには何かにつけ分かり切ったことを延々まるで説教するように話そうとするその男に、僕はこう言うようになった。
「だから…要するに?」
何が言いたいのか簡潔で無いし、ねちっこいのが鬱陶しい。
まともに取り合うと、お互いどんどんこねくりまわした理屈の嵐になっていく。
するとその男は、話を聞く姿勢がなってないだの、また色々言うわけだが、それを適当に流したあとで、もう一度、
「で、要するに?」
冷ややかにからかわれていることを解っているかどうかだが、チーフは怒り心頭だ。
もちろん僕だって、これほどの態度を取るまでには段階があった。
…が、とにかく最終的には、
(何で安い給料でこんな男の下で働かにゃいかんのだ?)
と、これまた苦痛。
その安給料も、高校を卒業して普通に就職していたなら耐えられたろうが、親や親戚に背負わされた借金が少し残っていた上に、彼女と暮らそうと無理して引っ越したマンションの家賃が、このままでは払えなくなりそうだった。
結局、その会社も辞めてしまった。
1年くらいは居ただろうか…?。。(^_^;)

師匠であるT先生のところに一時復帰したのは、そんなときだった。
はっきりと思い出せないが、T先生に連絡を取ったときは、まだ水商売をやっていたかも知れない。
好きだった漫画を描くことにも行き詰まりを感じて、武道も中途半端、仕事もうまくいかない…、そんな自分を鍛え直したかった。
だから「一時」と書いたが、そのときはもちろん、それなりの腕前になれるよう頑張るつもりでいた。
そして、懐かしい仲間(兄弟弟子)たちに会えれば、気が紛れるし、もう一度頑張れると思っていた。

…だが。。

一緒に練習をした兄弟弟子たちは、みんな去った後だった。

この時、T先生は就職していて、道場という体裁は取っておらず、新しい練習生として、入門して半年くらいのT中くん一人が、先生のお宅に習いに来ていた。
T中くんはその時20歳前後だったと思うが、T先生とのちょっとした縁で、習うことになったらしい。
当時は外功を取り入れた練習が中心になりつつあって、T中くんは太極拳もまだ前半の途中までしか憶えていなかったので、帰りに何度か型の続きを教えたことがある。
しかし、何やら忙しかったらしく、段々あまり来られなくなり、一旦抜けてしまった。
ちなみにT中くんは、その後しばらくして復帰したそうで、拳法をどれくらいやったのかはよく知らないが、現在は東京で声優をやっているとのことだ。
中年になってT先生とまたまた再会した後、T中くんの話を聞き、プロダクションのプロフィールを見に行ったら、趣味・特技の欄に「中国拳法」と書いているのを見て、懐かしく思った。

ちょっと脱線。。

少し戻るが、T先生に連絡を取ったとき、兄弟弟子たちがみんな居なくなっていることを知った。
T先生は、
「みんなそれぞれ自分の道を行くようになってね…」
というようなことをおっしゃっていた。
僕が思い浮かべたのは、以前習っていた頃に先生が、教えることが段々無くなってきたと言っていたことだった。
(みんな、あれから、本当に教わることが無くなったのかな?)
などと、思った。
ただ、練習相手が欲しかったし、みんなへの親しみも心にあったので、連絡を取ってみることにした。
そのとき、一応、練習仲間だった、一番弟子のTくん、2つ年上のK坂さん、3つ年下のK池くん全員と連絡が取れたのだが、それぞれの思いや事情で、復帰の意志は無くなってしまっていた。
まぁ、それについては、個人的なこともあるので書かないけれど、とにかく、僕が抜けてから、K阪さんとK池くんは1年半くらい、Tくんは2年くらい残っていたらしい。
Tくんは、T先生が仕事や結婚諸々で忙しくなっていた時期、T先生の兄弟弟子で、現在ウチの流派の長であるS先生のところに預けられて、しばらく通っていたそうだ。

みんなと再会して、話してみると、それぞれ自分なりの武道観を確立しているようだった。
僕がやめてから1年半から2年ほどの間に、みんなの何がどう変わったのだろう…?

そして、ミナミでTくんと会って話したとき、その後に習ったことを幾つか口頭で聞いて、個人的には、一緒にまた練習をしようと言って別れたのだが、そのあと僕自身が大変な状況になっていき、またT先生の元を去り、何度か引っ越ししたときに連絡先が判らなくなってしまった。
これは、携帯していた電話帳に連絡先を書いていただけだったのが悪いのだが…。
それと年賀状などが後から出てきたが、そのときにはまた何年も経っていた。。

T先生のところへ復帰していた間、T宮とのことも少し話したが、そのときは、
「なかなか面白そうやね」
という程度の反応で、具体的な技術論には至らなかった。
ただ、僕は一人の間に体の使い方を一つ発見し、T宮との交流を通してさらに気づいた気になっていて、それが松田さんが言う発勁に近い物じゃないかと思っていた。
それをT先生に話してみたらどんな反応をされるのか楽しみにしていたのだが、あまり大した感動は得られず、返ってきた言葉は、
「ウチには発勁は無い」
ということだった。
それまでにも、“勁”という概念はウチには無くて、そういう言葉では教わっていないというようなことをうっすら言われていたが、はっきりきっぱりきっちりかっちりと言われたのは、たぶん、このときだろう。

「まぁ、“発勁”ではなく“発力”やね。もしかしたら同じものかも知れんけど、発勁を習ってないから、判らんわな…」

ただまぁ、そのこと自体にがっかり感は無かった。
どうでも良かった。
T宮が説明する発勁には、最初は少しばかり驚いたが、自分なりに検証していくうち、それほど差異がないことに行き着いていたからだ。
今の視点で言えば、発力の仕方(体の使い方)には幾分かの違いがある。
だがそのときはそのときなりに、大雑把に、
「結局、一緒…」
という結論に至っていた。
でも、何かがまだ足りないという気持ちもあった。
そのことを、T先生にちょっとでもヒントをもらえればという思いもあったので、そういう意味では収穫が得られなかったがっかり感も少しはあった。
あとは地味な鍛錬をやって、そうこうする内に仕事は大変になるわ、金銭面では大ピンチやわで、短い期間でまたおいとましてしまい、このときは兄弟弟子たちが僕が居ない間に習ったことを、ほとんど埋まった感が無いまま終わってしまった。

そのあとは、前にも書いたように、何をやっていいのかわからなくなって、部屋を引き払って一時親元にやっかいになり、土木や建築の現場で働いたりした。
その時期に、空手経験者の男や少林寺拳法二段だという男と夜中の公園でガチンコの喧嘩をしたりして、拳法に対する思いが変わっていった。
このあとその話を書くつもりだけど、その前に、20代前半の喧嘩について少し振れてから、詳しく書いていくことにしよう。。

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