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太極拳ってど〜よ!?

徒然エッセイ

暴力の甘美

投稿日:2009年7月26日

まず言っておくけれど、僕は元から好戦的で人を殴るのが好きだったわけではない。
しかしその反面、気が短く激高しやすいところもあった。
実父からの影響だと思うが、内面的には、良くも悪くも非常に気位が高い。
もし、例えば母の実家で特別な苦労もなく育っていたら、僕は、多少は上から目線であっても、それなりに他人に親切な、ボンボンタイプだったろうと思う。
だが親が駆け落ちのように家を飛び出して東京や大阪で暮らし、水商売に身を投じ、生活が落ち着かず引っ越しを繰り返して、僕は田舎に預けられたりもして、行く先々でいじめられそうになった。
僕がそれに立ち向かっていくような気の強さを持っていなかったら、今頃は生きていなかったかも知れない。

以前、小学2年生のときに同級生や隣地区のガキの歯を立て続けに折った話を書いたが、そんなことは日常茶飯事に近かった。
もちろん負けたことも何度かはある。
それに子供の時の1歳や2歳の差は大きくて、先輩にはなかなか敵わない。
ただ、僕の場合、小学生の頃までは女の子と間違われるような顔つきだったため、大して強くないヤツや年下にまでなめられて、ちょっかいをかけられることが多かった。
その度に
「くそ、なめやがって!」
という思いがつのる。

僕が大阪に来てから育った地域は、特にガラが悪いので有名だ。
最初、標準語で話していた僕は、なおさら目をつけられて、転校して来たばかりのときは毎日のように的にされていた。
そんな環境で、本物のワルにもならず、人並みの反抗期も無く過ごしてきた自分を振り返ると、我ながらちょっといじらしくもあるくらいだ。

…とは言え、人を殴ったことは数知れない。
憎らしいヤツをぶん殴ったあとは、本当に気持ちがいいものだ。
せいせいする。
「思い知ったか!」
という思いで満たされる。
人を殴って嫌な気持ちになることもあるが、それは自分にも悪い部分が少しでもあったときだ。
「オレにちょっかいかけなければそんな目にも遭わなかったのに。ざまあ見ろ!」
という感じだ。
暴力とは、実は気持ちがいいのだ。

そしてこれが………暴力の怖さだ。。

暴力に染まる人間は、最初は、自分が悪いのに人を殴って後味が悪く思うときがあっても、我を通すうちに、人を傷つけることに対する呵責が麻痺してきてしまう。
そこが正常な範囲を逸脱してしまうかどうかのボーダーラインとなるだろう。

小学5~6年生の頃、いつも僕につきまとって、からかってくるヤツが居て(まーそんなヤツは他にも居たのだけど…)、確か1学年下で、近所の公園で僕を見つけては嫌がらせを繰り返していた。
僕は、前にも書いたが、子供の頃は足が遅かった。
そいつは僕をからかっては逃げ回って楽しんでいた。
あるとき、鉄棒に寄りかかってぼーっとしているそいつを見かけて、後ろから近づいていった。
「おいっ」
と声をかけると、振り返って一瞬びっくりしたが、僕のことをなめていたので、すぐにへらへら顔でおちょくる態度を取り始めた。
「お前、ええ加減にせえよ!」
と掴みかかって、笑いながら逃げようとしたそいつを捕まえ、後ろから羽交い締めの格好で振り回し、勢いをつけて胸の高さくらいまで振り上げて、そのまま背中から落としてやった。
地面に叩きつけられた瞬間のまん丸い目、そのあと悶絶して息も出来ない様子で苦しむ姿を、よく憶えている。
そして、僕がそれを見下ろしていると、次に何をされるかと恐怖に怯え、息を詰まらせながら必死に泣いて許しを請うていた。
僕は、
「アホンダラ!」
と叫んでその場を去った。

せいせいしていた。
…はずだった。

だが実のところ、怖くなっていた。
あまりの苦しむ様子に、
(大怪我をしているかも知れない、もしかしたら死んでしまうんじゃないか?)
とさえ思った。
放ってきてしまって大丈夫だったのか…!?
そして、怪我が大したこと無かったとしても、あとで大問題になるかも知れない。
どうやって切り抜けたらいいのかとあれこれ考えて、僕は僕でパニックになっていた。
つまり、
自分なりには思い知らせてやるだけの理由はあったにせよ、そのときはさすがに、
「やり過ぎた…!」
と感じてしまったわけだ。

…いや、まぁ、歯を折ったのだって、やり過ぎだろうけれど。。

暴力のもう一つ怖いところは、怒りに委せると加減ができないところだ。

僕は今まで、何度も人を殴ったことがあるとは言っても、本当に思いきり殴ったことは無いと思っている。
どこかでリミッターがかかっているのだ。
それでも、やはり加減しているとは言えないだろう。。
少なくとも意識して加減したことなど無い。

必死に手を出しても、当たらなかったり、効かなかったりする一方で、簡単にぶっ倒れて、悶絶したり、意識が飛んでしまったりすることもある。
時折、喧嘩で死亡する事件があるように、人と人とが争えば、一瞬あとには大事になりかねない。
このことは、武術や格闘技をやる人は、よく踏まえておかなければならないと思う。

本当に怒っている人間、確固とした殺意を持っている人間から、身を護ることの難しさもさることながら、戦って人を傷つけないことも、やはり難しい。

殺されるかも知れない危険な状況の中で、相手を殺してでも身を護ろうとするのは正当防衛だとしても、つまらないイザコザや、顔見知りとの喧嘩では、そうもいかない。
そして実際に起こりやすいのは、命のやりとりではなく、喧嘩の方だろう。
その喧嘩で、命を落とさない保障は、どこにもないのだ。

また、そんなことを思うとき、武術で、相手の力を利用して自滅を誘うように倒すとか、ふんわり握った拳で突くとか、リラックス状態を保って戦うとか、そういうことが本当に可能なのか、疑問に思えてならない。
まして、衝撃をコントロールするような打撃が、必死な状況でできるものだろうか?

中国武術や古武術をやっている人の中には、現代武道やスポーツ格闘技との違いを盾に、武術は人を殺傷するための技だと、過激で殺伐とした物言いをする人がまま居る。
しかしそれでいながら、「力は要らない」とか「気の鍛錬ですごいパワーが出る」とかの理屈は、誰かからの受け売りのままだ。
そういう人は、暴力の甘美に呑み込まれる怖さよりも、暴力に蹂躙される怖さをいつか思い知ることになるのかも知れない。
もちろん、どちらも、誰にでもあり得ることだ。
そして、組織や社会を敵に回す怖さも、知っておくべきだろう。

ステレオタイプに、
「突然降りかかる火の粉をどう振り払うか」
というような想定だけでなく、
自分が行使してしまうかも知れない暴力、
暴力に暴力で対抗してしまったときに起こり得ること、
知らず知らずに使ってしまっているかも知れない言葉の暴力、
それらの果てに生まれてしまうかも知れない人からの憎悪、、
…などなど、、
様々なことを考えておかないと、
武術は、人の心を歪めるものにしかならないのかも知れない。。

ちなみに、、
さっき書いた、背中から落としたヤツは、無事だったようだが、その後は僕の顔を見るだけで青くなって、そそくさと逃げるようになった。
目が合ったままのときは動けなくなっていることもあるほど怯えていた。
問題にならなかったことが判ると、僕を必要以上に恐れる者が居ることは、それはそれで気持ちが良かった。
まー、でも…。
それを気持ちいいと思うままの大人にならなかったところは、僕は少しはマシな部類の人間だろうと思っている。

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