中国拳法、武術、格闘技など、徒然気ままに…

太極拳ってど〜よ!?

徒然エッセイ

修得の段階や期間

投稿日:2008年11月24日

前項に関連してもう一つ書こう。

僕が友人に紹介してもらって入った某会社でのことだ。
あるとき、新しいパソコンソフトのコースを作ることになって、そのための教材(テキスト)を某先生に依頼することになった。
当時、夜間コースには、ワープロ、表計算、データベース、プログラミングなどがあり、それぞれ修得の難易度に合わせてテキストが作られていた。
僕は少しばかり制作に噛むことになって、その先生とやりとりした。

当時はパソコンがまだ高価で一般的ではなかったが、これからのビジネスマンにはパソコン操作が欠かせないというノリが広まっていた。
ノートパソコンと呼べるような機種がようやく出始めて、価格が40万円を切った頃だ。
しかし、今のWindowsの前身であるMS-DOSがとっつきにくくて、習得をあきらめる人も多かった。
僕などもそれまで、機械オンチで、
「パソコンなんてとてもとても…」
と思っていた方だ。
ただ、漫画家を目指していた関係で文章を書くのも好きだったし、ストーリーを考えたりするのにワープロ操作くらいはできるようになりたいと思って、21~22歳の頃にポータブルタイプのワープロ専用機を買って、持っていた。
両手指それぞれ3本ずつくらいを使ってどうにか我流で打っていたが、それが限界だと思っていた。
しかしその会社に入ったとき、せっかくだからパソコン操作も少しは覚えようと、再び奮起した。

まずは2週間でタッチタイピング(ブラインドタッチ)を修得して、1ヶ月経つ頃には十指でそこそこ打てるようになった。
それからMS-DOSの基本操作、一太郎(ワープロ)、Lotus1-2-3(表計算)と進んでいった。
タイピング練習から上記の一通りを覚えるまでは、大体半年くらいだったと思う。
プログラム言語はさすがに途中で投げ出してしまったが、Lotus1-2-3のマクロ言語を使ってちょっとした自動処理くらいはできるようになっていた。
「なんだ。オレでもこれくらいはできるんだ」
という感じだった。

一太郎とLotus1-2-3は、夜間コースで使っているオリジナルテキストをもらって、最初はそれに添ってこなしていった。
しかし説明が不親切なところもあり、結局は市販の入門書なども買って勉強したので、図らずもテキストとの比較をすることになった。

僕の記憶では、コース設定が、一太郎は3ヶ月で、Lotus1-2-3は半年か1年だったと思う。
週に2回、1時間半か2時間の受講で、大体これくらいという設定だ。
教室は一斉授業ではなく、受講者は個々にPCに向かって、テキストに従って進んでいく。
講師2人がその間、進み具合を見たり、質問に答えたりする形式だ。
だから、テキストが幾らか不親切に出来ているのはわざとで、教室で講師に質問させるためという意図も含まれている。
…に、してもだ。
僕は職場で仕事の合間にPCを触らせてもらったり、テキストもタダでもらって、ラップトップPCを借りて帰ったりもできたから短期間に修得できたのだが、はっきり言ってオリジナルテキストは無くても良かった。
テキストは、例題はきめ細かく用意してあるのだが、そのままそれに添ってやっていくと間怠っこいところがずいぶんあった。
その上ところどころ不親切なのだから、もし市販の入門書がこんなだったら投げ出してる。
つまり、テキストは、一定の時間をかけさせる意図もあるということだ。

要するに僕としては、使う頻度の高い機能を短期間にまず使えるようにしてあげる方が親切だと考えたのだ。
例えば表計算なら、入力の仕方と表の作り方がわかったら、あとは基本的に四則計算と、合計を求めるSUM関数、平均を求めるAVG関数程度で、ちょっと使うのに必要な範囲のほとんどのことはできてしまう。
しかしスクール経営の考え方としては、それでは早わかりで納得して続かない人が出てきてしまい、結果、売上が上がらないことになる、というわけだ。
僕はそこを、もう少しうまくバランス良く習得順を配置できないかと思ったのだが…。
…まぁ、市販の入門書にしても、簡単に説明している代わりに
「こういうときどうするんだ?」
という説明不足や不備がある。
スクールと違って質問できないから、それを補うために結局何冊か買うことになる。
ほどよくバランスよく1冊で説明できている本は良書と言えるだろう。

一方、習いに来る人は、独習が苦手な人だ。
僕は、自分が独習してみて、少なくともワープロや表計算の操作を覚えるだけなら、市販の入門書や解説本で充分だと思った。
結果的に何冊か買っても、習うよりはずっと安い。
しかし、スクールに来る人は、行き詰まったときに質問できる誰かが居ることが重要だったりする。
他にも、学校に通うということ自体が、頑張ってる自分を実感できるとか、色々あるんだろう…。
そして冒頭の、テキストを依頼した先生…。
「hideさんはそうやって1人でできる人だからそう思うんですよ。でも一つ一つ順を追って習わないとダメな人はたくさんいるからねぇ。その人たちに合わせてあげないと」
と言ってニヤニヤしていた。
「なるほど、そういうもんですかねぇ…」

考えてみれば。
子供の頃、ある時期から落ちこぼれてしまった僕が言うのも何だけれど、学校の教科書なんて薄っぺらいものだった。
それを1年かけてやるのだ。
本当に勉強が好きで、もっと知りたい、もっと解りたいと思うような子供なら、きっと物足りないはずだ。放っておいても勉強するだろう。
受験目的の勉強となると、また意味も内容も違ってくるのだろうけど。

さて、ここでようやく武術の話。。

まぁ、武術は、なかなか独習というわけにはいかない。
一定以上蓄積された技術があるし、知識を得るのが主目的ではなくて、身体を動かして修得するわけだから、文字情報だけでは伝えられないことが多い。
それを身につけたかったら、誰かに学ぶしかないだろう。
ただ、基本のようなことを長くやらされることがいいのかどうか…?

もちろん下肢鍛錬は必要だし、重心移動や、動きの理解のための大きな姿勢・型も、それなりの意味はあると思うのだけれど、本当にそうやって段階的に時間をかけて習得しなければならないのだろうか?
大架式の型や、八卦掌の走圏や、站椿(立禅)などの練功法は、本当に必要で効率的なのだろうか?
僕は、そういうことの一つ一つをいちいち否定したいわけではないのだけれど、疑問も拭えないのだ。

例えば、練功法の一部は、近代的なトレーニングに変えた方が効率的なのかも知れないし、站椿を瞑想的にやる人が居るけれども、それならフツーに瞑想をやってもいいんじゃないのか?---というように。
八卦掌の走圏も、下肢を鍛えるなら幾らでも方法があるだろうし、歩法の練習を兼ねているという理屈があるけれども、それなら相対練習で約束組手のように、実際に入る練習をした方がいいのでは?…とも思える。
中国武術では、何かと、
「〇〇には、それだけでない奥深い意味がある」
とか、
「この動きには〇〇の用法を隠している」
という言い方をする。
昔はそうやって隠さなければならなかったかも知れないが、今は他の格闘技で公開されている技の中に、そういったことが含まれることも多いと思う。

そして、子供の内から習うのならまだしも、10代後半や20代になってから習う人が、
「昔ならこの型だけで3年やらされたそうですよ」
という基本の型を、有り難がってやっていることも多い。
そして型を次々と修得していくだけで5年、10年経っていることもままあるようだ。

もちろん、型もしんどい。
大架式の型ならなおさらだし、型だけでも、体力も筋力もある程度養われるところはあると思う。
それに、武術としてやるからには、型の練習ばかりではなく相対練習もするわけだから、すべてが無駄なはずはない。
…ただ、そういう人が他派の人と自由組手をやったとき、型のように使えるかと言えば、まずそうはいかないだろう。
僕としては、そこに考えるべき余地、工夫すべき余地がある、と思うだけだ。

それに、昔から職業武術家は人に教えて生計を立ててきたわけだから、前述のスクール経営の考え方のように、必要なことをさっさと教えてしまったらおまんまの食いっぱぐれだという面もあっただろう。
嘘ではないまでも、そういう付け足しも多かったのではないだろうか…?

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