S先生の道場にお邪魔するようになって2、3ヶ月の間に、未見だったお弟子さんとも大体顔を合わせた。
順番は憶えていないが、先生たちの兄弟弟子であるTKさん、一番弟子のY本さん、京都のS木君とI内君、S井君やK原君の職場の先輩にあたるST君、など。
あと、序列二番手のM井君が、単身赴任で香港に行っているため長期間来られなくなっているとのことだった。
M井君はその後、仕事の都合や休暇等で一時帰国した際に稽古に来ることがあって、確か2年以上経ってから初めて顔を合わせたのだったと思う。
その後、僕がT先生と決別する少し前には、仕事が国内に異動になり、道場で顔を合わせるようになったが、まともに一緒に稽古したのは結局数回程度だった。
また、S道場に行くようになる少し前だったと思うが、SNSでメッセージをくれたAO君というお弟子さんが居て、僕は復帰後に最初にやりとりしたお弟子さんだったため親しみを感じていたのだが、彼とはなかなか会えないままだった。
しばらくしてAO君は白血病を発症し、後に幸いドナーが見つかって手術が成功するものの、全快まで長らく休むことになってしまった。
何年も経って全快してからの飲み会で顔を合わせたとき、そのときが初めてかと思っていたら、この年の忘年会にもほんのちょっと顔を出していたらしい。
その後もAO君はなかなか復帰できなかったので、結局僕がお邪魔する日に一緒に稽古したことは無かったと思う。
覗きに来ていたことが一、二度あった気はするけれど。
あとは、東北に引っ越してしまった元京都のお弟子さんが一人、お弟子さんの弟子にあたる人たちが京都と福井に数人ずつ。
大体こんな感じで、合計で約20名ほど。
門人はほとんどが古い人ばかりなのだが、仕事や家庭や諸々の事情でマメに稽古に来られる人は数人、多いときでも7、8人程度だった。
で、今回紹介した人たちのことをもう少し書く。
まずTKさんとは初対面で、事前にT先生が「昔、会ったこと無かったか?」と尋ねていたが、たぶん無い。
TKさんは私立高校の教師で、年は僕より一つ下だったが、先生たちとは兄弟弟子で、今までにも何度か書いた“W先生”の元で習っていたときからの付き合いなのだろう。先生たちとはタメ口で話していた。
僕としては、ちょっと複雑な気分……。
僕も、かつて兄弟弟子だった二つ上のK阪さんも、僕らはT先生からあからさまに下に見られていたのに、僕らより年下のTKさんが先生たちとタメ口という、この構図……。
でもまあ、TKさん自身は僕に気を遣ってくれていて、このあともずっと、僕をさん付けで呼び、ですます調の丁寧な言葉遣いで話してくれていた。
「ところでhideさんは、昔、Sさんの道場に来ていた(弟子だった)人で、誰を知っていますか?」
初対面の挨拶のとき、TKさんが尋ねてきた。
「いえ、ほとんど知りませんよ。顔と名前を知っていたのはN井君くらいで……」
「えっ、N井さんを知ってるんや?」
「ええ、まあ。彼は何度かT先生の道場にも、S先生と一緒に来ていましたからね。一人で来たこともあったかな」
このN井君は、その当時はS先生の一番弟子だったのではなかったかな?
初めて会ったとき、キャリアは僕らより一年くらい先輩だった。
TKさんがN井君をさん付けで呼んだのは、確かN井君は僕と同い年で、僕と同様にTKさんからすれば年上になるからだったのだろう。
TKさんは自分の兄弟弟子である先生たちとはタメ口だったが、そのお弟子さんたちに対しては、年上の場合はさん付けで呼んでいたようだ。
「あと、僕は会ったことがあるのかどうか、よくわからないのですけど、たまに先生たちが話題にしていた“F田君”とか……」
“F田君”というのは、『具一寿』の名で本を出している人で、彼は“双龍会”にも属していたが、S先生のところにも来ていたそうだ。
この人は在日韓国人で、僕の記憶では確か、元はお父さんからテコンドーを習っていて、それから双龍会で中国拳法を習い、S先生のところにも来ていたとかいう話だった。
彼の著作としては、1980年代に『中国拳法戦闘法』と『中国拳法打撃法』の2冊があるが、それらの本の解説の中で、部分的にはS先生が教えたことも含まれていたのだとか。
僕自身も当時、S先生のところに来ていた人とは知らずにその本を買って、
(何だかウチともちょっと似てるなあ……)
と思ったものだった。
それから、写真解説に出ている人の中には、同じくS先生の道場に来ていた人が何人か居たらしい。
ちなみに2000年代になってからカタカナのタイトルになって出版された本もあるが、上記2冊をほぼ同じ内容で再編したもののようだ。
「じゃあ、hideさんもずいぶん前に来ていたんですねぇ」
「はい。今頃になって出戻りで……」
懐かしげに感心するTKさんに、僕は照れ笑い。
それからこのTKさんは、僕がお邪魔するようになった頃は、割とよく稽古に来ていたのだが、仕事が忙しくなって(職場が変わったと言っていた気もする)、途中からは頻度が落ちていった。
TKさんは、どちらかと言えば先生たちとの付き合いで武術を続けている感じだったので、最初に相手してもらったときは、やはり他の人と同様に力では敵わなかったが、何年かする内には僕の方が強くなって、TKさんが途中で音を上げてしまうくらいになった。
一番弟子のY本さんは、S先生のところに初めて習いに来たときは中学生くらいだったらしい。年は僕の五つ下なので、入門時期は僕と変わらないか、もしかしたら僕より後だったのかもしれない。
僕の記憶の限りでだが、彼は高校卒業後に海外留学することになって一旦やめて、その間あるいは帰国後、しばらく極真空手をやっていたそうだ。
それからまたS先生のところに戻って、今に至るということなのだが、それぞれの期間がどれくらいだったのかはよく知らない。
とにかく、今までに一番弟子の扱いだったお弟子さんは何人か居たが、結果的にY本さんが最も古くなって、一番弟子になったとのことだった。
例によって事前にT先生から「Y本君のことは知らんか?」と聞かれたが、僕は憶えが無かった。
昔、前述のN井君以外に、大阪の二つの支部道場で合同稽古をしようということになって、当時のS先生のお弟子さんたちと2、3回一緒に稽古をしたことがあったが、来ていたのは割と年が近そうな人ばかりで、中学生くらいの人は来ていなかったと思う。
「たぶん会ったことは無いと思います」
「そうか。ま、彼がSさんのところの一番弟子やから、憶えといて」
そして僕は、Y本さんのことは、年下だけどS先生の一番弟子ということで、彼だけはさん付けで呼ぶことにした。他の人は、みんな五歳以上下の人ばかりだから、まあ、君付けでいいかな……と。
今は関係が無くなったからY本さんを君付けにして書いていてもいいのだけれど、手のひらを返すみたいで嫌だから、以前のままさん付けにして書いている。
まあ、そんな儀礼はともかく、Y本さんは一番古いから立場的に一番弟子というだけではなくて、間違いなくS門下で一番上手く、一番強いお弟子さんだったと思う。
必ずしもS先生の教えた通りではない部分や、意を違えている部分もあったようだが、S先生が自分の知っている全部を伝えている人だった。
前に書いたS木君とも会った。S先生の情報をネットで探していて見つけたHPの主だ。そのS木君を最初に見たときにも、やはり、
「うわっ、でかっ!」
と思ったのが率直な感想だった。
なるほど、人によってはこんなに体が大きくなってしまうのか、――と。
でも我々は、綺麗なカラダを目指して部位別に鍛えたり、食事制限をしたりしているわけではないから、脂肪も含めて大きくなってしまう。
なのでS木君も、昔のプロレスラーのような体つきだった。
力道山や馬場&猪木の頃の選手を思い浮かべてもらえればいいと思う。プロレスラーほどモリモリ太っちょというほどでもなかったけれど。
それにしてもI上君を見たときもそうだったが、やはり100キロ級ともなれば迫力が違う。最初は体の大きさだけでその威圧感に圧倒された。
そして、同じく京都から来ているI内君だが、彼は逆に体が小さく、門内で一番小さかったのではないだろうか。
ただ、服を脱いだときの体の締まり具合は群を抜いていて、自らの工夫で食事制限も含めてのストイックな鍛え方をしていた。
また、体は小さくとも力はやはり大したもので、最初は敵わなかった。
そのI内君も、僕の主な稽古相手であったK原君と同様に、入門時はひょろひょろだったらしいのだが。
ところで京都の人は、S木君、I内君、病気療養することになったAO君、東北に引っ越したH君などが居るのだが、元は京都にあった中国拳法の同好会のメンバーだったらしい。
昔、その同好会で中国拳法の先生を何人か招いて習っていて、S先生もそこに招かれ、出張して教えていた時期があったそうだ。
四国に陳氏太極拳で割と有名な、DVDなども出している人が居るが、元は京都の人だったそうで、I内君が友達だと言っていたので、その人も陳式をやる前は同好会のメンバーだったのではなかったかな。
その後、S先生が同好会への出張教授をやめるときに、継続して習いたいと同好会を抜けてついてきたのが京都組の人たち、とのことだった。
S井君やK原君の職場の先輩であるST君は、平日はなかなか来られないとのことで、僕が行く金曜日に顔を合わせたことは、僕がS門下に居た期間中でも、全部で数回程度しか無かった。
でもこの時期には、「出戻りのT先生のお弟子さんが来ている」というのを聞いて、挨拶がてら覗きに来てくれたらしい。2ヶ月目あたりの頃だったか。
ST君とは、もっとあとのことになるが、初めて軽い組手をやったとき、彼の繰り出す突きが変則的な軌道で非常に読みにくく、しかも力強くて速く、相手しづらい思いをしたのが印象的だった。
僕はそれまで、他のお弟子さんもそうだがST君も、姿勢や動きを見ているとあまり上手くない印象を持ったのだが、組手になるとこうも相手しづらいものかと、ちょっと面食らった。
ST君は実際、S先生から見てもあまり上手くなかったらしく、教えたことが出来ないと怒られることが多かったようなのだが、なかなかどうして、型通りではないだけで、この人は手強い、と感じた。
あと関係ないがST君は、僕の昔の友達でこのブログにも書いたことがある“T宮”と顔や雰囲気が似ていたので、僕は何となくST君に親しみを感じていた。
ほとんど夏と冬の飲み会でしか顔を合わせなかったのだが……。
さて、それからしばらく。
立ち方、姿勢、型などの上手さでは、Y本さんとその下の人たちの間には、あきらかな段差があった。
これについて僕は「どうしたことだろう?」と思っていた。
後のことも含めて言えば、もっとあとで会うことになるM井君も上手かったが、この二人以下はずいぶんと大雑把に見えた。
そういえば昔、S先生のお弟子さんとの合同稽古で見た人たちもそうだったのを思い出した。
そのときも、S先生はすごく上手いのに、お弟子さんたちはどうしてこうも違うのだろう? ――と思ったものだった。
理由の一つは、すぐに判った。
S先生はある時期から、そもそも型を、ほとんど教えていないのだった。
立ち方も、昔は細かく注意されたものだが、今は最低限の注意さえ守れていれば、あとは適当でいいという感じになっていた。
(それで、本当にいいのか……?)
僕は戸惑う思いだった。
K原君と稽古し始めたとき、彼は太極拳の型をほとんど知らなかった。
形意拳の五行拳は知っているのだったかな?
とにかく、何かの型はちょっと習ったと言っていた気がするが、ほとんど型稽古をしていなかった。
それで、合間に僕が教えてあげようとしたら、S先生に見咎められたことがあった。
「それ、何しとるんや? 型みたいなもんはせんでええ。そんなことやってる間があるんやったら鍛錬せえ!」
――と。
またあるとき、S井君と一緒になった帰りの電車の中での話だが、S井君も型はほとんど知らないとのことだった。
「僕は十四勢もあやふやですよ」
キャリア三年のK原君がまともに型を知らないのもどうかと思ったが、十年以上のS井君も似たような有り様とは……。
「う~ん。僕は出戻りだし、今のやり方をまだちゃんと解っていないから、何とも言いづらいのだけど、型はある程度はやっておいた方がいいよ」
などと、その頃は言っていた。
結局、そう言いつつも、K拳の鍛錬を理解していくにつれて、僕もあまり型をやらなくなっていくのだけれど、それでもやはり、ある程度はやっておいた方がいいと思っている。
少なくとも、基本となる立ち方や動き、技法の理解のためには。
何か一つくらいはまともに知っていないと、師匠から教わることも理解しにくいし、他流他派のことも研究がしづらいからだ。
また、型というのは、言語のような役割もあると思う。
S先生もT先生も、教えるときには意外と口下手になるときがある。
「あー」とか「うー」とか言いながら、身振りで伝えようとするようなとき、僕なら「ああ、コレですね」と、型の中にある動作を身振り手振りで返すことができる。
すると即座に「そうそう!」――となる。
けれどS井君やK原君などは、そういう理解も返し方もできない。
さらに言えば、ウチの太極拳の型は、K拳を取り入れたアレンジが為されているわけだから、なおさら知っておいた方が、話が早いし、理解も深まるわけだ。
このことは後にS先生も同意するのだが、それでも型を軽んじて教えないのは、要はS先生の怠慢なのだ。
今ここではまだあまり書かないでおくが、S先生にとってはすでに、
『型なんてものは体操でしかない』
という結論に至っていて、結局、K拳の鍛錬がすべて、必要なことはこの中に全部含まれている、――ということで、
『型なんてやる間があったら鍛錬やれ!』
――と、なるわけだった。
それでもやはり、Y本さんや僕らのように、先生たちが型の修練に励んでいた頃の弟子と、それ以降の弟子との段差を考えると、面倒臭がって教えないのはどうかと思ってしまう。
あれも要らん、これも要らん、核心的なことはこれだけ、と、絞って、絞りすぎてしまうと、習うことも少なくなるし、返って解りにくくなったりもすると思う。
ちょっと話が取り留めなくなってきた。
まあ、その辺のことはまた、少しずつ書いていくことにしよう。