中国拳法、武術、格闘技など、徒然気ままに…

太極拳ってど〜よ!?

徒然エッセイ

当流の武術について、改めて

投稿日:2016年10月29日

さて、これから、止まったままだった本筋の話を再開するのだけれども、改めて当流のことをもう少し明かしておこう。

元師匠であるT先生との再開後、流派の長はS先生となっていたのだが、その師匠たちが長年師事してきたのは、『西郡多喜雄』先生だった。
このブログの中でずっと“X先生”と書いてきたのは、実はこの西郡先生だ。

僕が所属していた流派が、元は故・佐藤金兵衛先生の全日本中国拳法連盟(以下、全中連)から分かれたことは、前にも書いたが、西郡先生は、僕が入門した時期、全中連で、現在の全日本柔拳連盟(以下、柔拳連)を主催する地曳秀峰さんと共に、師範代のような立場だった人だ。

若い頃の僕は、このお二人のことを、単純に「金兵衛先生の高弟」なのだと思っていたのだが、金兵衛先生を含めたこのお三方の関係性は、ちょっと複雑なようである。
また、全中連は今でもそのようなのだが、各師範が、金兵衛先生の武術以外に、他の拳法を余所で学んで来ていたり、自分の団体を別に持っていたりする。
今の代表的なお二人はれっきとした金兵衛先生のお弟子さんのようだが、地曳さんや西郡先生は、何だろう、雇われ師範みたいな感じだったのだろうか……?
ただ、地曳さんにしても西郡先生にしても、全中連に所属していたのだから、金兵衛先生との間に上下関係があったことは確かだろう。

まー、それは置いて。
まずは西郡先生について僕が知っていることを、書ける範囲で書く。

西郡先生は、全中連で支部も受け持っていらっしゃったので、その当時、関東方面で西郡先生に教わった人はたくさん居たはずだ。
しかし、武術書を著したりはしていないし、テレビや雑誌に出たこともたぶん無いので、世間的にはほとんど無名である。
今日、インターネットで検索しても、小佐野淳さんの書籍のプロフィールに「西郡多喜雄師範に学び~」という記述がある以外は、ほとんど情報が出てこない。
ちなみにその小佐野さんは、僕が若い頃はまだ西郡先生に習っていらっしゃったと思うので、西郡先生が独立してから配られた名簿の中に、確か名前があったように記憶している。
あと、他に西郡先生のお弟子さんで著名な方は、シラットの對木佳史さんなど。

西郡先生は、日本の古流武術の宗家を幾つか持っていらっしゃって、日本武術や中国武術に関する造詣が深い方であったそうだ。
全中連では、王樹金の内家三拳もやっておられたが、しかし西郡先生は他に、縁あって修得した拳法があった。
それがこのブログで以前、「とある拳法」と書いていたものだが、西郡先生はこの拳法をずっと秘していて、ほとんどの人に教えていない。
そのため名は伏せておくが、以後は“K拳”としておく。

そしてまた、西郡先生が独立する前に見つけて来られた、東北の古流柔術がある。こちらは名を出すが、“真極流”という柔術だった。
真極流の名を出したのは、西郡先生が真極流をやっていたことは割と知られていたようで、ネット上でもそんな発言を幾つか見たことがあったからだ。
ついでに言うと、雑誌『秘伝』か福昌堂のHPに設置されていた掲示板だったと思うが、ずいぶん前にたまたま覗いたとき、「西郡先生を探している」という書き込みを見て、その人にコンタクトを取ったことがあった。
記憶が不確かだが、その人はロシアに関係するような仕事の人だったのか、柔道好きで有名なプーチン大統領が日本の古流柔術に興味を持っていて、誰かが「真極流」の名を出したらしく、側近が伝承者を探していて、それでその人も西郡先生を探しているとのことだった。本当かどうかはわからないが……。
その掲示板の人とのやりとりでは、僕も西郡先生の所在がわからなかったので(※後述)、「小佐野さんに尋ねてみては?」と言ったが、すでに尋ねたとのことだった。
それによると、小佐野さんは、言葉を濁して、とにかく「知らない」という返答だったそうだ。
まあ、小佐野さんは確か破門されたはずだから、知るはずもないか。武術関係のネットワークが広そうなので、わかるかもと思ったのだが……。
とにかく真極流は、今では失伝に近い状態で、“幻の武術”のようになってしまっているらしい。

西郡先生が真極流を学んだのは『佐藤熊蔵』という先生で、西郡先生が知り合った当時、すでにご高齢で、もうだいぶ前にお亡くなりになった。
熊蔵先生の真極流が入ってきたのは、僕が最初の4年半ほどで一旦抜けるちょっと前だったが、そのときも、
「手技、足技の威力がハンパじゃなくて、ご高齢とは思えない、凄い先生だ」
という噂だった。
師匠筋の話では、西郡先生は他者をあまり認めない性格の人だったが、この熊蔵先生のことは別格で、大層できる武術家として、認めていらっしゃったそうだ。

ところで、真極流には下斗米秀之進(以前書いた平山行蔵の高弟。「相馬大作事件」で有名)の流れを汲んでいるという伝承があるんだとか。
(表に出していない伝承かも知れないのだけど……)
そして当然、下斗米秀之進の師である平山行蔵の流儀も入っている、と聞いたのだが、しかしこれは、もしかしたら、西郡先生かS先生の後付けの解釈ではないかという気もしている。
S先生は平山行蔵を真極流の流祖のように思っていらっしゃったのだが、T先生によると、東北の一部では下斗米秀之進=相馬大作は英雄視されていて、彼の流れを汲むとされる流派は幾つもあるとのことだった。また、調べてみると、下斗米秀之進は岩手県出身で、真極流は宮城県発祥らしいのである。
まあ、岩手と宮城は隣だし近いので何らかの関わりがあっても不思議では無いが、下斗米秀之進が真極流をやっていたとしても、平山行蔵と関わりがあるだろうか……?
ただ、以前、平山行蔵について触れた記事を書いたけれど、僕が平山行蔵を好きになったのは若い頃のことで、これは偶然である。
ずっとあとになって、自分がやっている武術が、もしかしたら平山行蔵の流れを汲んでいるかも知れないと思うと、嬉しい気持ちには、なったのだけれど。

K拳に戻るが、以前、SNSで僕に、
「あなたは西郡先生のお弟子さんの弟子ではないですか?」
と、メッセージをくれた人が居る。
その人はHさん(HNのイニシャル)と言って、前にこのブログにもコメントをくれた“猫だニャン”さんに拳法を習っている人で、西郡先生の昔のお弟子さんだった。
その人はK拳の存在を知っていたのだが、後に猫だニャンさんとメールでやりとりしたとき、日本でも名が知れている別の「K拳」と勘違いしていたらしいことが判った。
つまり日本語での読みが同じだったので、日本でも知られている「K拳」のことだと思っていたらしい。
但しHさんはK拳の鍛錬をサワリだけやらせてもらったことがあったそうで、僕がそのK拳を学んでいると言ったときは驚いていた。

で、そのK拳、どのような拳法なのかというと。
まず分類から言えば、北派で、内家拳に属するとのこと。身分の高い医家に伝えられてきた家伝の拳法で、裕福な家であったため武術家の食客が常に居るような環境で、他派との交流もあり、時にはそれらを取り入れてきたそうだ。
けれども技は簡素。力の鍛錬を重んじる剛の拳だ。

そして西郡先生は、K拳と真極流が核心部分で共通するところが多かったことから、K拳のことも再確認できたらしく、本門をこの二つとした。
つまり、以前、『当流の太極拳(2012年02月24日)』などでも書いた二つの武術がこれらであり、だから今では、全中連とも、柔拳連とも、それ以外の中央国術館系とも、違うのだ。

それから、西郡先生は、幾つかの宗家を持っていらっしゃると言っても、伝承者であるとか、伝書とか、全伝とかには、あまり拘りの無い人だったそうだ。
まあ、宗家を持っていらっしゃるということは、そういうものが欲しかった時期、拘っていた時期もあって、譲ってもらったりもされたのだろうけど、本当に秘していた武術に関しては、必要な部分と核心的な部分だけでいいと思っておられたようだ。
だから結果的に、僕らは、K拳だけを系統立って教えて欲しい、もしくは真極流だけを、と言われても、そんな風に教えることができない。
結局僕らが学んだのは、“西郡先生の武術”ということになるのだろう。

ついでだから金鷹拳についても書いておこう。
全中連から独立する話が出た当時、僕らは入門して4年くらいで、「今後は看板を金鷹拳の道場にする」と言われ、今まで以上に金鷹拳の稽古に励むこととなった。
だが、何かトラブルがあったらしく、ほどなくして金鷹拳を看板にするのは取りやめになった。
僕らは、前にも書いた「七蝶」まである“蝶”の型を「四蝶」までしか習っておらず、僕としては“蝶”以降にあるという“鷹の型”を学べなかったのが、ちょっと残念ではあった。
さらに言うと、実は金鷹拳を行っている台湾振興社には表に出していない流儀があって、それは“H拳”という猿の拳法だそうだが、結局それも謎のままになってしまった。
だが蝶の型だけでも、僕はずいぶん太極拳の糧になったと思っている。
その後は、どういう経緯かわからないが、小佐野さんが台湾とのパイプを持ち続けて、今は第何世とか名乗っていらっしゃる。
しかし今の金鷹拳は、台湾で行われているものも含めて、動画などで見ると、僕らが習ったものとは動きがずいぶん違っていて、改めて習おうとまでは思わないのだが……。

それから、金鷹拳がダメになった頃、西郡先生は、食鶴拳の故・劉銀山氏、柳生心眼流の島津兼治さんらと交流されていた。
食鶴拳は僕らもサワリを習わされて、確か「食鶴拳を看板にするかも知れない」とも言っていた気がする。
だが、劉氏とも何か折り合いが悪くなったらしく、関係が切れてしまった。
島津さんとは、僕の先生たちが向こうのお弟子さんと一緒に稽古したことがあったり、一時は親密な交流があったようだが、やはり途絶えてしまった。
これについても、何故か小佐野さんは、島津さんにその後師事したりしているので、そういうところも西郡先生の逆鱗に触れたのかも知れない。

ところで、前に2ちゃんねるの過去ログを漁っていたとき、島津さんや小佐野さんについて悪く書かれた発言を幾つか見た。
どれとは言わないが、僕が聞かされたことと符合することも、幾つもあった。
僕が知っているということは、書いた人が同門である可能性もあるわけで、もしそうだったら嫌だなぁ、と思っていた。
まあ、西郡門下でなくとも周知の事実のようなことが、2ちゃんねるに書かれていたのかも知れない。2000年代前半までに書かれた内容であれば、巡り巡って師匠筋に伝わり、それが復帰後の僕に伝わった可能性も無くはない。全部がそうでは無いにしても。
また、小佐野さんと言えば、ビートたけし(北野武)の番組での失態がかなり有名になってしまっているようだが、僕は見ていないのでわからない。
僕の先生たちはリアルタイムに見ていたそうで、ずいぶん語り草になっていたのだけれど、その後の小佐野さんはどうなのだろうか……。

西郡先生のことを長々と書いてきたけれども、僕自身は西郡先生にお目にかかったことは無い。
西郡先生が独立するとき、S先生以外の先生たちも西郡門下になると聞いて、僕らもそれに従ったわけだが、西郡先生から一、二度、年賀状をいただいて、もちろん僕も書いたはずだけれども、その後、僕は一旦抜けてしまったので、それきりになった。
僕が抜けていた間に兄弟弟子たちが、千葉の西郡先生のところに稽古に行ったことがあったそうだけど、僕はその機会を逃してしまった。

さて、脱線しつつ、いつものごとく長くなってきたが、“W先生”についても書いておこう。
以前、『W先生との出会い』で書いた、W先生だ。
W先生は職業武術家では無いのでこのまま名を伏せておくが、前に書かなかったことを少し追加する。

W先生は明治の生まれで、軍人であったそうだ。
聞いた話では、神戸商船大学出身で、海軍で、飛行機乗りだったとか。
僕の祖父も、叔父から聞いた話では商船大出身で海軍だったそうなので、もしそれが本当なら、祖父の方が少し年上だと思うが、顔見知りだった可能性があるかも?
終戦後、自衛隊が創設されてからは、W先生は定年まで自衛官だったと思う。
武術については、最初は植芝盛平に師事していて、植芝門下では金兵衛先生の兄弟子にあたる立場だったとか。
その後、塩田剛三に師事し、養神館に所属しておられたとか。
W先生のところに僕らがお邪魔した頃も、もしかしたら養神館にもまだ籍を置いていらっしゃったのかも知れない。また、そういった関係で、W先生が勤めていた学校の柔剣道場に警察SPや自衛隊の人が合気道を習いに来ていたのかも知れない。
あと、塩田さんがロバート・ケネディ夫妻の前で演武を行って、ボディガードに技をかけたときの有名な映像に、若い頃のW先生も映っているそうだが、僕にはわからない。
何せ僕は、72歳頃のW先生に二度ほどお会いしただけなので。

W先生が太極拳をやることになったのは、50歳を過ぎた頃に、年齢が上がってきたことを考慮して、一人でも稽古できる武道は無いかと考え、金兵衛先生に太極拳を習うことになったのだそうだ。細かい経緯は知らないが。
あと、大阪に転属になることも関係していたのだったかな……?
そしてW先生はこの太極拳を大層気に入られて、九十九勢を毎日三度も演武するほど没頭していらっしゃったことは、以前も書いた。
それからW先生がこの太極拳に合気道の理を加味されていて、S先生やT先生はそれを習ったわけだ。

W先生の門下では、師匠たちの中ではT先生が一番古く、T先生より半年くらい後にS先生や他の人たちが入ってきたそうだ。
T先生は最初、金兵衛先生のところに手紙を送って、東京の道場に泊まりがけで習いに行ったそうだが、まだ中学生くらいだったT先生に「東京まで来るのは大変だろうから」ということで、金兵衛先生がW先生を紹介して下さったそうだ。
S先生も東京には行っていたらしいが、同じような経緯かどうかはわからない。
とにかくS先生は、西郡先生から目をかけられていて、西郡先生に師事する決心をしたとき、W先生にその旨、断りを入れたそうだ。すると、W先生は優しい態度で理解して下さって、そのときは大変感謝したと、後にS先生ご自身が僕に話してくれた。
S先生も他人のことをあまり認めない人で、例えば人の善意についても「どうせこうだろう」みたいな穿った見方をする傾向があったが、W先生のことだけは人物として尊敬していらっしゃるようだった。

……そろそろ閉めようと思うが、最後に。
西郡先生は、あるとき突然、引退して、行方不明になってしまった。
前述の掲示板の人が西郡先生を探していたとき、僕がわからなかったのも、そのためだった。
僕が復帰後、S先生のところに行くようになったときには、すでに西郡先生との縁が切れていたと思うが、正確な時期はよくわからない。
S先生と酒を飲んでいるときに聞いた記憶はあるのだが、酔っていたせいではっきりと憶えていなくて、そのままだ。
(実はS先生と話したことの中には、こんな風に記憶が曖昧になってしまっていることが多い……)
とにかく西郡先生からS先生のところに引退を告げる手紙が来て、いきなり縁を切られた格好になってしまったそうだが、それはS先生だけではなくて、他のお弟子さんに対しても同様であったらしい。
そしてどこかへ引っ越してしまったらしい。
まあ、本気で探そうと思えば探せるのだろうけれども、ご本人がそう決めたのなら仕方が無い……というところだろうか。
S先生も苦労して付き従ってきたので、ガックリと力が抜けてしまったのだろう。その後、西郡先生に対しては、愚痴や恨みや苦労を口にするばかりになった。
それにしても西郡先生は、もうご高齢のはずだが、まだ元気でいらっしゃるのだろうか。
西郡先生がもしまだ現役で、それこそ僕がまだ門下であったなら、今日書いたことなど、大目玉を食らって即、破門かも知れない。
ただ、名前を出せば、消息がわかる人から連絡をもらえることがあるかも知れない、という意味もあって、西郡先生のことを書いた。

……そしてまあ、そんなこんなが、今に繋がっているわけだ。
太極拳に関して言えば、今の僕がやっているのは、中国発祥の、誰もが思い浮かべる太極拳とは言えないだろう。
しかし僕は、太極拳を中心に「武術」というものを模索する中で、今のスタイルに至って、「太極拳のあるべき姿はこうだ」と思えるようになったので、今さらこれを変える気は無い。
というか、はっきり言えば、僕は太極拳に拘ってはいないのである。
継承とか全伝とかも別にどうでも良くて、中国武術にも拘っていない。ただ「武術」というものの根幹に、真実に、少しでも近づきたかっただけだ。

このあと、このブログでは、僕がT先生と再会してからの経験話を書いていく。
僕も師匠の悪口や苦労話をずいぶん書くことになると思うが、技術的なことも幾らかは挟みつつ書いていくので、お付き合い願えれば幸いだ。
今後のペースは、毎週…とまではいかないと思うが、なるべく月に2、3記事くらいはアップして、一年以内に終わらせる目標で書いていくつもりだ。

 

以下、コメント

旧ブログからの移転にあたり、掲載当時のコメントはこの下に“引用”のかたちで付けておきます。管理人からのレスは囲みの色を分けてわかりやすくしておきます。
なお、現在はコメント機能は使用しておりません。ご意見、ご感想等はメールにてお願い致します。

hide~☆さん、はじめまして。

私も昔、武術をやってたもので、
ちょっと疲れたときなど、
楽しく読ませていただいております。

私はもうずいぶん前に武術を
やめてしまった(ちょっと事情があって)
のですが、hide~☆さんはずっと
続けておられて、素晴らしいと思います。

さて、今回コメントさせていただいたのは、
私の武術の師匠のことです。

私の師匠は、実は西郡多喜雄先生なんですが、
ブログ内で先生の消息について書かれて
いたようなので、ひとこと。

残念ながら、西郡先生は、すでに
お亡くなりになってらっしゃるようです。

私の先輩に当たる人のブログに、
はっきりと書かれていましたので、
間違いないと思います。

もう西郡先生にお会いできないことはもちろん、
あの「凄まじい」真極流の技も
失伝の可能性が高いと思われ、
残念でなりません。

長くなりましたので、今回は
この辺で失礼しますね。

また、コメントさせていただきます。
(ご迷惑でなければ)

Posted by ジャッキー・チュン at 2016年12月23日 18:12

ジャッキー・チュンさん、こんにちは。はじめまして。

西郡先生のことをお知らせ下さり、ありがとうございます。
お亡くなりになっていたとは……残念です。

何年か前、S先生と飲んでいたときに西郡先生のお歳の話が出たのですが、その時点で「もう70歳を過ぎているだろう」と言っていたように思います。
それで、
(もしかしたら年齢的なことや体調のことがあって引退されたのかな?)
――とも、思っていました。

先輩の方がブログをやってらっしゃるんですね。
プロフィールに西郡先生のことを書いている人ではないですよね?

あと、亡くなったと言えば、西郡先生の高弟の“H兄弟”と呼ばれていたお二人の、確か弟さんが亡くなられたと、前に噂で聞きました。

真極流に関しては、僕も色々、残念に思っています。
形式だけで無く根幹をきちんと伝えられる人が残っていればいいですね。

よろしければまたコメント下さい。
メールも歓迎です☆

Posted by hide~☆ at 2016年12月23日 19:43

hide~☆さん、こんばんは。

もうちょっと早くコメントするつもりでしたが
不覚にも体調と崩してしまい、今日という
ことになりました

えっと、何を書こうかな(←考えてなかったんかい!)。

そうそう、西郡先生が亡くなられたことを
ブログに書いた「先輩」というのは、
もちろんあの「肩書き大好きO佐野さん」ではありません。

O佐野さんは破門されてますし、あの人に対しては嫌悪感と軽蔑の念しか持っておりません。

ブログを書かれたのは、先輩ではありますが、今は宗教家(お坊さん)で、その方面のブログを開設していて、ほとんどその関係の記事しかないのですが、ときおり、思い出したように
昔の武術修行のことを記したりされるので、
そこでたまたま目にしたのです。
(今は、ごくたまに川原で劉銀山先生の
食鶴拳の稽古をされてるとか)

>H兄弟

そうですか。
弟さんが亡くなられましたか。
たしか、僕より少し年下だったように
記憶してますが、大病でもなさったのかな。

僕は、門下では一番のヘタレ弟子でしたが、
なぜかH兄弟とは仲良くしてもらってましたので、残念です。

H兄弟は、おそらく西郡門下最強だったでしょうね。
弟さんは天性の「ケンカ屋」という感じで、
バツグンの身体能力を持ってましたね。
口の利き方もちょっと乱暴でしたが、
本当はお茶目でいい人でした。

お兄さんの方は、身長2メートルに近く、
たしか極真の黒帯を持ってたのかな~。
一度だけ、金鷹拳の組手の相手をしてもらったけど、もう大人と子供というより、大人と赤ちゃんという感じで、問題にもなにもなりませんでした。

ただ、お兄さんの方はおっとりとした性格で、
僕と話がよく合って、けっこう楽しかったです。

あ、それから、hide~☆さんがブログで書かれていた、なぜ西郡先生が金兵衛さんの同情におられたか、ということについて、書きますね。

確かに、hide~☆さんがおっしゃるように、西郡先生は、金兵衛さんのところで『雇われ師範代』のようなことをされてました。

で、ご存知とは思いますが、金兵衛さんの中国拳法は型を習っただけの「学生」レベルでしかありません。
当時、本物の中国拳法を体得していた西郡先生も、その点は鼻で笑っておられました。

では、なぜ、先生は金兵衛さんの下について
師範代のような地位についていたかというと・・・・・

(続く)

ウソです、すんません。

それは、日本の古武術を伝授してもらうためだったのです。

王樹金老師が来日される前、金兵衛さんは柔術を中心とした古武術七~八流(くらいだったと思う)の宗家や免許皆伝を受けていて、警察署に指導にも赴いたりしていました。

つまり、中国拳法とは違って、古武術は本物だたんですね。

そこで、中国拳法とは別に、日本の古武術の奥義を得たいと思っておられた西郡先生は、金兵衛さんに弟子入りして・・
と、いう経緯だったそうです。

地曳さんについてはよくわかりませんが、同じような理由だったのではと推測してます。

あ、また長くなってしまいました。

今回はこの辺で。

また、コメントします。

Posted by ジャッキー・チュン at 2016年12月30日 22:08

ジャッキー・チュンさん、こんばんは。

コメントをありがとうございます。

体調はもういいのですか?
年末で忙しいのかと思っていました。ご自愛下さい。

さて、ちょっと突っ込んだ内容になっているように思いますが、ジャッキー・チュンさんが書いていいという判断の元に書いているものと解釈します。
まー、僕はことさら秘密主義でもありませんので、そのままレスしますが……。

> 先輩

いえいえ、O佐野さんではなくて、占いとかをやっている人のことを指していました。
その人が西郡先生や蘇東成さんに習ったとプロフィールに書いていましたので。念のため先ほど見に行ってみたら、今は書かれていないようですが……。
(※但し西郡先生の名前で検索するとヒットします)

その宗教家の先輩のブログは、僕はたぶん見たことが無いと思います。
食鶴拳、懐かしいですね。
僕は基本の五行手しか習いませんでしたが、西郡先生が劉銀山氏と交流があった間には、もう少し入ってきていたのでしょうか?

> 大病でもなさったのかな。

よくはわかりません。巡り巡っての噂ですので。
H兄弟の弟さんがそういう人だったというのは、初めて知りました。
お兄さんの方がそんなに身長が高い人だったということも。
(もしかしたらS先生から聞いたことがあったかも知れませんが……)

あと弟さんの方は、お兄さんから習っていると聞いたような記憶があります。
しかし「H兄弟」と呼ばれていたくらいですから、西郡先生にも習っていたのでしょうね?
もしかしたら“K拳”はお兄さんから、ということだったかも知れません。

> 金鷹拳の組手

二人組でやる型(対打、対練)のことでしょうか?
それとも空手で言う一本組手のようなことでしょうか?
ちなみに、二人組でやる型でしたら、日本人で動画をアップしている人がいますが、あれはひどいですね……。
ただ、Youtubeに台湾人の動画も上がっていますが、それらもまともなのがほとんどありません。

ちなみに僕の金鷹拳、一番基本の「拳母」ですが、一つだけ動画があります。
◆鍛試会 稽古風景 2016年11月分(正宗太極拳、少林金鷹拳)
www.youtube.com/watch?v=gmAbCiNKo4M
最後の方で演武しています。<9:03あたりから
まー、今は金鷹拳をほとんどやっていませんので、僕も上手いと胸を張って言えるものではありませんけれど……。

ジャッキー・チュンさんは、いつ頃、どれくらいの期間、やってらっしゃったんですか?

> 『雇われ師範代』

なるほど。でも柔術に関しては師事していたわけですね。

金兵衛先生が王樹金からどこまで習ったかについては、その「学生」というのが正しいのかどうか、僕には判断がつきません。
中国式に「拝師」した、いわゆる内弟子と、それ以外を「学生」と分けて言う意味での「学生」でしたら、そうなのかも知れません。
ただ、僕の師匠であったT先生は、西郡先生に付く前は金兵衛先生の弟子だったようですが、伝え聞く話としては、金兵衛先生もずいぶん大枚はたいて習ったそうです。

西郡先生が、金兵衛先生のところで教えている中国拳法をあまり認めていなかったのは、僕も聞いていました。
同じもの(例えば内家三拳)を教えていても、
「向こうは、なかなか教えない上に、嘘ばっかり教えている」
というように。
まー、それ以上に、地曳さんのことはもっと認めていなかったようですけどね(笑)

> 当時、本物の中国拳法を体得していた西郡先生も、

そこはちょっとわかりません。
僕は、西郡先生は内家三拳を金兵衛先生から習ったか、金兵衛先生と同時期に王樹金から習ったものと思っていました。
“K拳”を習ったのは、それより後だと思っていましたので。
何故なら“K拳”を習った先生に、太極拳の手直しをしてもらったという話も聞きましたので。

だから僕としては、西郡先生は、先に日本武術をある程度やってらっしゃって、最初に習った中国拳法は王樹金の内家三拳だと思っていました。
その後、“K拳”や他の中国拳法に触れるにつれ、金兵衛先生の中国拳法は認めなくなり、柔術に関しては認めていた、というように。

ただ、その辺の詳しい経緯は知りませんので、ご存知なら教えて下さい。
僕はT先生やS先生から聞いた話から判断していますが、このお二人の話も、実はところどころ食い違う部分があります。
もちろん西郡先生に関することでは、S先生の方が近しかったわけですので、T先生よりはS先生の話の方が信じられますが……。

> 地曳さんについてはよくわかりませんが、

このお二人のことは、僕は最初、仲のいい師弟なのかと思っていました。
大昔に買った金兵衛先生の護身術本の中で、若い頃のお二人がテレビ出演して柔術の技を披露している写真が載っていたからです。
その後、愛隆堂から出した『八卦掌』の本の中では、地曳さんが演武写真に出ていますしね。

こちら側で聞くところによると、昔、地曳さんを師範代に推薦したのは西郡先生だったとか。
だとすれば西郡先生の方が金兵衛先生とは古い付き合いだったのかな?
……とか、よくわからない部分が色々あります。

また、晩年の金兵衛先生の本では、地曳さんの悪口……というか軽んじているような文章がありましたが(確か2冊くらいでそんな一文を見た記憶があります)、一方、地曳さんも太極拳の本の中で金兵衛先生の悪口めいたことを書いていますね。

地曳さんや柔拳連に関しては、いっぺん書いてやろうと思っていることが幾つかありますが(実際に書くかどうかはわかりませんが)、ひとまずこれくらいにしておきます(笑)

あと、コメントは記事本文に関連する範囲でいただけると有り難いです。
(今のところは関連する範囲だと思っています)
突っ込んだ話は、よろしければメールででも。
一度HPのフォームからご連絡いただければ、その後はお互いのメールアドレスでやりとりできるようにします。

Posted by hide~☆ at 2016年12月31日 03:09

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