中国拳法、武術、格闘技など、徒然気ままに…

太極拳ってど〜よ!?

徒然エッセイ

脱力と放鬆

投稿日:2009年5月27日

“脱力”については、2007年03月21日の記事『脱力と力との狭間の迷路』を始め、今まで何度か触れてきた。
一方、“放鬆”(ほうしょう/ファンソン)という言葉は、このブログではあまり使わず、“脱力”と一括りにしてきたのだが、今回はちょっと分けて書いてみる。

“放鬆”とは、偏らずリラックスした状態をいう。
ほどよく力が抜けていて、剛でも柔でもなく、ニュートラル、中立、中庸…。。
その意味で言えば「とことん力が抜けている」状態とは違う。
“脱力”の場合も、
「とことん抜き去れ!」
と教えられるのは指導の一環であって、ただ抜くことそのものが武術における“脱力”ではないだろう。
少なくとも僕の解釈としては、
最初に「力を抜け」と教えられるのは、余計な“力み”を取り除くためで、「とことん抜き去れ」と言われるのは、自分自身の力みを探って抜いていき、また、相手と触れたとき力の方向を感じ取れるよう、そういった意味合いで訓練する場合のことだ。
(“気感”や“意念”との関連はここでは省く)
これらは、確かに重要なのだが、どこまでできればいいかという点では終わりのない世界だ。
…まぁ、どんな技芸にも終わりはないのだけれど。。
ただ、、
脱力の意味はそれだけではないし、脱力をどう使うのかという、その先のことも考えれば、ひたすら力を抜くことだけに拘っていると、武術としての全体的な理解を狭めてしまうのではないだろうか。。
力を抜くことに拘っている人たちは、いかに力みのない型や推手ができるか、など、そういうことばかりを追い求め過ぎているように見える。

また、前項にコメントをくれた“名無しさん”が、
「脱力や太極拳で言うファンソンは、そんなに簡単にできるものじゃないんですよ。だから、みんな何年もかけて練習するんです」
と書いていたけど、、
何も僕は、“脱力”も“放鬆”も否定していないし、簡単だとも言ってはいない。
しかし、力まないこと、余計な力を使わないことは、他の武術やスポーツでも重要なことだし、太極拳が特にそれを重視し、さらに奥深いものを持っていても、「力を抜く」「とことん抜き去る」などとばかり言っている人たちが、それより先にあるものを理解しているとは思い難かった。
そういった印象から、脱力や放鬆を軽んじているように見える書き方をしてしまったかも知れないが、決してそういう意味ではない。
もちろん、本当に理解しているか、していないか、知らないが、僕の印象からそう遠くない人たちは、本来の武術とは縁のないまま何年も過ごしていくのかも知れない。
それで、僕としては、
3年や5年やっていて迷いや違和感を抱いている人の参考になれば…という思いもあって、僕自身が今よりもっと浅かった頃のことを引き合いに些か問題提起したわけだ。
けれど。
今の自分の知識や理解を信じている人は、そのまま自分の道を行けばいい。
僕だって自分がすべて正しいとは思っていないし、何より、他人が信じて歩もうとする道を阻もうとは思っていない。そんな資格も無い。
ただどこかで望んでいる思いとしては、必ずしも同調・同意では無くとも、意見は意見として理解できるような人と交流を持ちたいという気持ちはある。
会話が成り立ち、例え考えは対立していても、きちんとキャッチボールができるなら、だ。
しかし残念ながら、ネット上にそういう人は非常に少ない。
だから僕はここを議論の場にはせず、基本的に判断は読む方々にお委せしている。
(※『はじめに』参照)

あと、念のために言っておくけれど、僕は前項にコメントをくれた“名無しさん”に、この項で改めて反論しているのではない。
上述のようなことは今までに何度も感じていて、たまたま今回もそういったご意見をいただいたので、一応、補足しておこうと思った次第だ。

話を戻そう。

この項の最初にも書いたが、放鬆は、とことん脱力した状態ではない(と僕は思っている)。
例えば、“立身中正”という身体要領は、一般的な説明でも、頭頂を糸で吊されているようなイメージで、頭頂から会陰(えいん)または尾閭(びりょ)までを真っ直ぐにすることだと言われている。
これ一つを取ってみても、カラダを真っ直ぐ保つのに必要な最低限の力は要る。
また、指先を伸ばすことで腕の伸筋に少し張りを持たせるが、これも同様だ。
他にも、周知のように幾つかの身体要領がある。
そしてそれらを満たしつつ、
「緩んでいるようで緩んでいない。わずかに力を使っているが、しかし力んでいるのではない」
というような状態を作る。
これだけでも非常に難しいし、まして、これを表現しながら一通り演武するのは大変なことだ。
しかし、それがイコール“強さ”に繋がるかといえば、どうだろうか。。
ニュートラルな状態から瞬間的に「力を抜く」「力を入れる(または発する)」を使い分けることができて、実際の動きに乗せることができなければ、技にはならないだろう。
そしてまた、
型や推手でそういうことが表現できたとしても、やはりそれがイコール“強さ”に結びつくのかどうか。。
型も推手も修得方法の一環ではないのか。
定規で引いたように姿勢や型の矯正を目指し、いかに力を抜くかを上達の鍵とするのは、それだけでは、どうも無理があるような気がするのだが…。。

ちなみに。

僕が学んだ太極拳では、脱力や放鬆は、一定のことができてくると、あまりとやかくは言わない。
重ねて言うが、軽んじているというわけではない。
ただ、陳伴嶺・王樹金系の太極拳は、どちらかと言えば形意拳的で、他派の太極拳とはちょっと違うのだと思う。
つまり、身体を緩めたところから“気”や“意念”の流れに添い、手先に向かってムチのように加速させるような打ち方をするのではなく(そういう打ち方もあるが)、基本的には、インパクトの瞬間に骨格を引き締め、強い姿勢を形作って打つ。
“剛太極拳”と言われる所以だろう。
しかし、同じ系統の太極拳でも、「ファンソン、ファンソン」と言う人たちは、そこを分けていなくて(教えられていなくて?)、先に広まっている一般的な太極拳に合わせてしまっているような気がしてならない。
まぁ、武術世界は秘密も多いので、一定以上のキャリアになるまでは、ひとまずそういう風にしか教えてもらえないのかも知れない。
そして今、そういう太極拳も、同じ“正宗太極拳”としてある程度普及しているので、その趨勢から見れば、僕が言うことは、同系の太極拳をやっている人からも違和感を持たれてしまうことが多い。
まぁ、これについては逆に、
僕の方が間違っているかも知れない可能性も挙げておくことにしよう。
ただ、、
身体を緩めて伸びやかにしならせて打つのと、短い距離からでも打てるように身体を引き締めて打つのとでは、根本的にやり方(力の出し方)が違う。
どちらが正しいかはおいて、考えてみるといいだろう。

以下、コメント

旧ブログからの移転にあたり、掲載当時のコメントはこの下に“引用”のかたちで付けておきます。管理人からのレスは囲みの色を分けてわかりやすくしておきます。
なお、現在はコメント機能は使用しておりません。ご意見、ご感想等はメールにてお願い致します。

 

hide さん こんにちわ。

今回は脱力についての記事ですね。

前に書いたか忘れましたが、僕も数年前までは脱力に何の意味も求めずに傾倒していた1人であります。
だから、頑なに脱力だけを追い求める人の気持ちも判ります。

僕も指導者からはとにかく脱力を追求することを教えられ、柔らかければ柔らかいほど良いという感じでした。またそこに<氣>の概念も入ってきました。
だから、『よく解んないけど先生が言うんだからそうなんだろうなぁ』って感覚で練習していました。

だけど、指導者に頼らず自らで考える練習になった時『あれ・・・?脱力って実際の格闘で何に使えるんだろう?』 『練習で脱力ありきの技を練習したけど実際問題、ボクサーや総合格闘者を相手にしたときに、戦いの間ずーっと脱力しっぱなしで戦えるかな?』って考えになったわけです。
そうなると僕の中では脱力で全てに対抗出来るという考えは無くなりましたね。

脱力で得られる身体運用や技術・力の出し方は間違いなくあると僕は思います。

だけど、そこだけを妄信的に傾倒し過信するということは僕の中ではすでに現実的ではないのでは?という感じですね。

じゃあ何故そこまで脱力信者みたいな人たちがいるかと考えたときに思ったのですが、要は人を飛ばしたり引き倒したり等、巧みな条件付けでしか表現できない
<魅せ技>
を極めることを目標にする会が多いからじゃないでしょうか?
そしてその魅せ技とリアルを一緒にして指導されているからじゃないでしょうか?

僕はそんな気がしてならないです(*_*)

Posted by がみ at 2009年05月29日 01:14

>> がみさん

こんにちは。コメントをありがとうございます。

今回の文章を見る限り、ほぼ全部について同感です。
しかしそれでは味気ないので(笑)、少し引用してレスします。

> だから、頑なに脱力だけを追い求める人の気持ちも判ります。

まぁ、僕もそうですね。。
以前のレスにも書きましたし、ブログの中でも書いていますが、気持ちが解るが故に、こんな問題提起のようなことを書いているわけです。
もっとも、その人たちにとっては有り難迷惑な話でしょうけれど…(笑)

> だけど、指導者に頼らず自らで考える練習になった時『あれ・・・?脱力って
> 実際の格闘で何に使えるんだろう?』 『練習で脱力ありきの技を練習したけ
> ど実際問題、ボクサーや総合格闘者を相手にしたときに、戦いの間ずーっと脱
> 力しっぱなしで戦えるかな?』って考えになったわけです。

力を抜く訓練をすることによって出来るようになる動きというものもあるとは思いますが、そのことだけを追い求めるのはおかしいでしょうね。。
脱力は脱力で、やりたければそういう訓練も併用して続けていけばいいですが、それが目的になるのは本末転倒ではないかと思うのです。
そして。
指導側にとっては、そういうサルオナ(失礼(笑))なことを続けさせて、月謝を払ってもらえれば、こんな楽なことはありません。

> そしてその魅せ技とリアルを

まさにその通りだと僕も思います。
約束上の突きに対しての用法や、推手で押し飛ばしたり、が、できても、実際に本気で戦うとなれば違うのに、そこをリアルに想像できない人が多いですね。
…というか、そこを洗脳してしまうような大系に、理論や教授方法がなっているのだと思います。
極端な言い方ですが。。

Posted by hide at 2009年05月29日 06:33

hideさんのおかげで、"力を抜く"と"力みをとる"の違いが分かってきたような感じがします!
自分は以前まで力を抜くことが放鬆だと思っていました。たしかに、力を抜きすぎれば、
正しい姿勢がとれず、太極拳の要領から外れてしまう。ここが問題ですね。
だから、余分な力みを入れず、ほどよい力で体を動かしていくという事ですよね?
あと、話が変わりますが、立身中正で頭を糸でつるすという意識がありますが、それを意識してタントウを行っていると、上半身が虚になり下半身が実になりだんだん足が重くなっていく感覚が出てきて、他人に体を持ち上げてもらうと重くなっているという事を自分自身で体験しました。相手がなかなか自分を持ち上げられず驚きました。
これは、放鬆とは、関係があるんでしょうか?

Posted by 名無し at 2009年05月30日 15:51

>> 名無しさん

こんにちは。コメントをありがとうございます。

> だから、余分な力みを入れず、ほどよい力で体を動かしていくという事ですよね?

…う~ん。まぁ、そうなんですが、、少し違いますね。。
型をゆっくりやる上ではその通りですが、推手や組手、果ては実戦など、実際に体を動かすときには、力は必ず働くものです。

ただ“放鬆”という要領は、おっしゃるように、余計な力みを取り除いてリラックスし、ほどよい力加減で動ける状態を作ることだと思います。
それによって、力の使い方のコツを掴むため、ということでしょう。

しかし、段階練習として、初心の頃は特に、「とにかく力を抜く」「とことん力を抜く」というやり方があってもいいと思います。
また、一定以上のキャリアになっても、時には初心に立ち返ってそういう練習をしてみるとか。

それから、例えば、歩法に“膝の抜き”がありますが、これは瞬間的に力を完全に抜くわけですね。(どこまで完全かは置いて。。)
このように体の一部分などの力を瞬間的に抜くようなやり方はあると思います。
それが日本武術的に言うところの“脱力”…ということになるでしょうか。。

ただ、前々から僕が言ってきているのは、ひたすら脱力(この場合、とことん抜き去ること)を目指してばかりなのはどうか?…ということです。

> あと、話が変わりますが、立身中正で頭を糸でつるすという意識がありますが、
(※以下略)

私見の範囲で回答します。

一般的によく解説されている站椿の姿勢だと、
まず上半身、手は前に出しますが肘は少し垂らしていて、腕は最低限の力で上げて維持している状態ですよね。
あとは身体を真っ直ぐにする以外、特に負荷がかかるようなところはありません。
そこから瞑想するように、身体の力を抜いて(リラックスさせて)いくわけですね。
そうなると、一定以上の負荷がかかっているのは足だけになり、当然、意識も足に向かうため、足が重くなった感覚が生じるのではないでしょうか。
また、姿勢の取り方や意識の置き方で、腕や足に重みが増すことはあると思います。
前にも書いたことがありますが、人間の体は筋繊維が引っ張り合って立っているため、他人の身体を抱き起こしたり持ち上げようとしたりするとき、その人の体内の筋繊維が助力するようなことになり、実際ほどの重みを感じません。
しかし、力が抜けると、筋肉の緊張が解け、実際の重みを感じるようになります。
つまり膝を曲げて腰を落としていても、そこから足を伸ばして身体を持ち上げようとする部分の筋肉の力を最小限にしようとしている分、力が入っている(力んでいる)ときよりは重くなるわけです。
そう考えると、別に不思議なことではありませんね。
ただ、
こういったことを“気”の作用として説明する人もいますが、不思議パワーのように考えるのは自重した方がいいでしょう。
要は、それがいかに技に繋がるかを考えることが大事だと思います。

Posted by hide at 2009年05月30日 23:32

アドバイスをありがとうございます。
やはり推手や実戦では、自分が気付かなくても全身の力が使われているってことがありますよね。
つまり、余計な力みを取り除くというのは技を(トウロや単式練習など)上達させる上での補助的役割をしているということで実戦などでは、あまり関係がないということでしょうか?
站椿の話では、実際の重みが相手に伝わるということなんですね。その感覚をいかに技にいかすか、、、その重みを自分から相手に伝えていくという事は、できるでしょうか?

Posted by 名無し at 2009年05月31日 10:14

>> 名無しさん

コメントをありがとうございます。

> やはり推手や実戦では、自分が気付かなくても全身の力が使われているって
> ことがありますよね。

と言うか、、
ヒトの体を直接動かしているのは筋肉ですので、本当に力を抜くということは無理なんじゃないでしょうか…。。
どこかで読んだ情報によると、腕の重さは体重60キロの人で2~3キロだそうです。
体が大きい人や腕を鍛えている人ならもっとあるでしょう。
その腕を、例えば頭を掻こうとして手を上げるとき、力を使っている感覚があるでしょうか?
特別力んで自分の腕を持ち上げたり動かしたりするでしょうか?
しかし、確実に筋肉は収縮しているし、そこには力が働いているのです。

> つまり、余計な力みを取り除くというのは技を(トウロや単式練習など)上達
> させる上での補助的役割をしているということで実戦などでは、あまり関係が
> ないということでしょうか?

関係がないということはありません。
例えば腕には屈筋と伸筋があり、両者は拮抗関係ですが、協調して動き、腕を曲げたり伸ばしたりできます。
つまり片方が縮むとき、もう片方は伸びるわけですが、しかしそこに緊張(力み)があると、スムーズで速い動きができません。
それは普段の動きに支障を来すほどのものではないでしょうが、素早い運動を行うときには差が生じます。
もちろん動き(フォーム)に対する慣れの問題もありますが…。
そして普通の人は、余計な力を抜いて純粋に必要な力を使うことに慣れていませんから、最初は訓練によって力みを抜くようにしていくわけです。

また、脱力をどう使うかということのヒントについては、『脱力と力との狭間の迷路』という記事に少し書いていますので、読んでみて下さい。
残念ながらそれ以上のことをここでお教えすることはできません。
(アウトラインやヒントのようなことは、もしかしたら今後も少しは書くかも知れませんが…)

> その重みを自分から相手に伝えていくという事は、できるでしょうか?

上記を参考にして下さい。

あと、動いているときに自分の重みをどう上手く使うかは、套路の中にもヒントがあると思います。
体重移動しながら防御や攻撃の動作をしているはずです。
しかし型(套路)も訓練の一環ですので、実戦的にどう使うかは工夫の要るところだと思います。
それは僕にとってもまだまだ課題です。

「自分から相手に伝える」というのは、最も単純な話、相手をぶん殴る動作で考えてみれば解りやすいんじゃないでしょうか?
野球の投球動作のようにぶん殴る動作を行ってみて下さい。
誰かにパンチングミットでも持ってもらって、打ってみれば、後ろ足から前足に体重が移動していき、拳に重みが乗っていく感じが掴めると思います。
もちろんこれは例えです。
拳法の技でどうやるかは、自分で考え、工夫してみて下さい。

Posted by hide at 2009年05月31日 11:35

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