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太極拳ってど〜よ!?

徒然エッセイ

第二期修行18:S道場初訪問とその頃のこと【5】

投稿日:2017年11月19日

このタイトルは今回まで。締めくくりにS先生のことを書こう。
再会したときの印象や、その頃に感じたことなど。
……まあ、最初にそういったことから書くのが当たり前な流れなのだけど、当時のことを思い出しながら書いていたら、何故かこういう順番になってしまった。

S道場にお邪魔して、初めてS先生と挨拶を交わしたときには、ずいぶんと風貌が変わっていて、ちょっと驚いた。
体つきがごつくなっていることや、スキンヘッドになっていることなどは、T先生から聞かされていたけれども、
(あれ? S先生? S先生だよな……)
――などと思いつつ。

あとで家に帰ると、昔、W先生のところにお邪魔したときにみんなで撮った記念写真を探して、そこに写っているS先生を見てみた。
昔のS先生の写真は確かこのときの分だけだったと思うが、何分、集合写真で、顔が小さくてはっきりとは確認できなかった。

またS先生は、少しふっくらと丸顔になっており、無精髭を生やしていたが、白いものも混ざっていて年齢よりも少し老けて見えた。
しかし体は骨太で節々が太く、筋肉も発達していて、たくましかった。
目つきが鋭いこともあって、ちょっとコワモテ風にも見えた。
(これはどこかですれ違っても絶対に判らなかったな……)
僕の記憶の中のS先生とは、全然違っていた。

……で、前にも書いたように、
「紀効新書に出てくる絵のような体」
とT先生が言っていたが、それも遠からずか……。
けれど僕的には、昔のプロレスラーみたいに、脂肪も乗っているがたくましい体、という感じだった。
ただ、首元に近いあたりの胸筋はあまり発達していなかったので、そのあたりの筋肉はそれほど重要ではないのかな、などと思ったりした。
これは後に、僕がT先生に言ったことがS先生に伝わったのか、胸筋も鍛えるようになったらしく、最初に会った頃より発達していくのだが。
そういうところは、茶目っ気と言っていいのか、意外と人に言われたことを気にするところがあったようだ。
まあ、僕が言ったからかは、断定できないが。

茶目っ気と言えば、S先生はユーモアがあり、面白いかどうかはともかく、冗談をよく言う人だった。
昔、会ったばかりの頃は、
「お前ら、何で拳法なんか習おう思たんや? 親の敵でもおるんか?」
と、新しい人にいちいち尋ねていた。
でもこれは、大抵の人は「いえいえ、そういうわけじゃ……」と言いながら愛想笑いを返すしかない微妙な反応。
まあ、それが当時の、S先生の挨拶だったのだろう。
最初は受け答えに困る微妙な冗談も、S先生から話しかけてもらえる中で、何となく繋がりのようなものも生じてきて、端から見れば面白くないようなことでもケラケラと笑えるほどコミュニケーションが成立してきていた。

で、僕がS道場にお邪魔するようになってからは、どちらかと言えば自虐ネタのようなものが多くなっていた。
S先生が道場に入ってくるときには、いつも何か一発かますのが恒例。
「今日、来る前にちょっと鏡見たらな、びっくりしたんや。うわ、山本小鉄がおるわ、と一瞬思ってしもうてな」
……確かに、雰囲気はちょっと似ている。
鍛錬をやっていたみんなは、一拍置いて、失笑。思わず力が緩む。
(山本小鉄だと自虐になるのかというツッコミは置いて……)

また、その日たまたま、稽古に来ている人が多かったときには、
「何や今日は人多いな。まるで流行ってる道場みたいやんけ!」
――などなど。
僕は結構、S先生の冗談がツボで、真っ先に吹き出していた。
S先生のキャラが独特で、S先生が言うから面白いというのもあって。

それから、これはもう少しあとだったかもしれないが、S先生がゲーム機のプレイステーションポータブル(以下、PSP)を持ってきていた時期があった。
暇つぶし用に持ち歩いていたようで、『モンスターハンター』(以下、モンハン)にハマッていたらしい。
僕はゲームをあまりやらないのでPSP自体持っていなかったが、そのときは、S先生って意外と新しいもの好きで頭が柔らかいんだなあ……と、感心した。
但し、ずいぶんあとになってから知ったが、モンハンと言えばネット対戦で遊ぶのがスタンダードだと思っていたら、S先生はスタンドアローンで遊んでいたそうだ。
それもそのはず。S先生はネット嫌いで、しかも食わず嫌い。
ちょっとT先生が携帯電話を持たないのとも似ていた。
実はこういうところ、カチカチに固くて古い頭の持ち主だった。

さて、S先生の武術について。

S先生の立ち方や動きを見たときは、何というか、名人・達人に近いような風格を感じて、T先生とはまた違った意味で感銘を受けた。
強いて例えれば、昔の時代劇俳優のような雰囲気があった。
昔の時代劇俳優は歌舞伎出身の人が多く、あるいはそれに倣って立ち居振る舞いや演技や殺陣を覚えているので、それらが身に付いている人は、ちょっとした姿勢・動作も見事なものだった。
もちろん役者の場合、殺陣はお約束だし、演技の中で逆手や当て身のようなことをやっていても、本当に技をかけているのではなくて、フリだけだ。
それでも昔の時代劇俳優は、名人・達人のような雰囲気と動きを上手く表現していたと思う。

で、S先生は武術家なのだから、もちろんフリではない。
そのときの僕からすれば、いかにも堂に入ったかたちに思えた。
だからといって健康太極拳や表演武術や、現代のよく見る合気道のように、行儀のいいスラッとした立ち方というわけでも無くて、力強さを内包した、いかにも“武術”らしい姿勢や動き、という感じだった。
一見、荒々しく粗野に見えて、実は繊細。
僕はS先生の動きに見惚れてしまい、このあとはT先生よりもS先生の動きをイメージして稽古することが多くなっていった。

そして、驚いたのが、S先生がミット打ちをした際の突きの威力だった。

それまでT先生との稽古で見ていたT先生の突きは、もちろんそれも大した衝撃ではあったのだが、「力任せ」というものでは無いにせよ、筋肉を見ればそれくらい威力があって当然では? ……と、思えるところもあった。
それにT先生の場合、体の使い方は知っているにせよ、動作が遅い。
その頃はまだわからなかったなりに、しっくりこない思いがあった。

けれどS先生の突きは、ひゅっと軽く動いて繰り出したように見えて、大きな距離を取って打っているわけでもないのに「ズバーンッ!」と、重く響いて伝わる。
筋肉もさることながら、筋肉だけではない洗練された力の使い方をしていると感じる。
初めてミットで受けさせてもらったときは、まるでバットのフルスイングで叩かれたような衝撃だった。
打つ方は打った感触がわかるように、また、受ける方には威力が伝わるように、薄手のミットを使っているから、なおさらなのだが、結構痛い。
野球でも、グローブやキャッチャーミットで、そこそこ速い球を投げる人の球を受けるのは、慣れていない普通の人には痛くて受け辛いだろう。
S先生の突きは、さらに体重も幾らか乗っていて重いから、
(こんなのまともに喰らったら死んでしまうよ!)
と、実感するのに充分な威力だった。

また、S先生よりずっと体が大きいI上君やS木君でも、こんなに強くは打てない。二人はT先生とあまり変わらない程度だ。
T先生も体の大きさはS先生と同じくらいだったから、I上君やS木君は、力は強くても体の使い方がその分は未熟ということになる。

僕も、何とか少しでもS先生に近づこうと、何度も目を凝らして見ていたのだが、まったく真似できない。
どう違うのかが、なかなかわからなかった。
それで、ともかくK拳の型(鍛錬)の動きの中からヒントを得ようと、しばらくはその方向で励むしかなかった。

結局、少しずつ教えてもらいながら何年もかかって、
「オレも、まあまあな突きができるようになったな」
――と、思えるようになったのは、T先生と決別するちょっと前あたりだった。
S先生とマンツーマンで稽古するようになって以降だったら、手前味噌ながら、少なくとも突きに関してはT先生よりも巧くなっていたんじゃないかという気がしている。

最初に戻るが、S道場に通うようになってしばらくするうちに、S先生は僕によく声をかけてくれるようになっていた。
けれど、まだまだ親しいというほどではなかった。
それよりも僕は、ちょっとでも早く場に馴染もうと、稽古には早めに行くようにしていた。
稽古は基本、夜8時から10時まで。
会館は町会の人が時間前に鍵を開けてくれていて、たまに何かのサークルが直前まで使っていることもあったが、大体は7時半頃に行っても、鍵は開いていて誰も居ない状態だった。
それで僕は、一人で準備運動や太極拳をやったりしていた。

他に早く来ていたのはI上君。僕が8時より前に来ているのを知ってからだったのか(?)、いつの間にかI上君も早く来るようになっていた。
それに釣られてか、京都のI内君も早く来ることが多かった。
あとの人は8時を回ってから、ポツポツ。
S先生が来るのは大体9時前後だが、たまに早く来ることもあった。
そういうときは何か教えてもらえるのが楽しみだったが、まあ、教えてもらえなくても、S先生の動きを見られればメッケモンという感じだった。

10時に稽古を終えると、着替えてみんなが出るのは10~15分後になる。遅いときは10時半頃だ。
なので、部屋を使えるのは10時半までだったのかな?
で、大体10時あたりには町会の人が犬の散歩がてら戸締まりに来ていたが、来ないときは「終わりました」と電話を入れて帰る段取りになっていた。

ちなみにI上君は、お弟子さんの中での序列は、名簿によると(※名簿は序列順になっているので)四番目だった。
三番目はST君。ST君はS井君とともにK原君の職場の上司にあたるそうだが、道場に来れるのは大抵日曜日。
それも仕事や家庭の都合で頻度が落ちているそうで、僕は飲み会の時くらいしかほとんど顔を合わせることがなかった。
二番目のM井君は海外赴任中だったため、金曜日の稽古で顔を合わせるお弟子さんでは、Y本さんに次いでI上君が二番目という感じだった。

それからI上君は、Y本さんと同い年だと思っていたが、改めて名簿を見てみたら、一つ上だった。
学年では二つ上かな? お弟子さんの中では最年長のようだ。
振り返って思えば、もしかしたら僕がY本さんをさん付けで呼び、I上君を君付けで呼んでいたことは、快く思っていなかったかもしれない。
それはともかく、I上君は、どちらかと言えば仏頂面で、僕は、I上君が少々苦手だった。
まあ、仏頂面と言えばS先生ご自身がそうだし、いつも斜に構えたような態度だったから、その影響もあってか、一門が全体的にそういう傾向にあったのだけれども。
T先生がいつも学校で会うとき仏頂面だったのも、そういう理由からだったのかもしれない。
で、I上君のことは、苦手と言っては言い過ぎかもしれないが、とにかく何となく取っつきにくかった。
たぶん悪気は無いと思うし、親切にしてもらったこともある。お酒の席では笑いながら話したことも多々ある。
だから、僕の考えすぎな面があったとしても否めない。
けれど当時の僕は、何となく先輩風を吹かせて上から言ってくるような態度に見えるI上君のことを、少し面倒臭く感じていたのだった。

そのI上君とS先生は、やはり古いお弟子さんということもあって、かなり親(ちか)しい間柄のようだった。
あとで聞いた話では、昔、習いに来る人が少なくなり、仕事や何かの都合であまり来られなくなる人が出てきて、その当時に借りていた会館を引き払い、S先生の自宅の庭で稽古していた期間があったという。
I上君はその頃に入門してきて、S先生がK拳の鍛錬を最初から教えていたので、二人だけで鍛錬することも多かったそうだ。
S先生もI上君のことを「Iちゃん」と呼んで親しそうにしていた。
ほとんどの人は名字で呼び捨てにされていたので、ニックネームやちゃん付けで呼ばれていたのは、I上君と、もう少しあとになってからの僕くらいではなかっただろうか。
S先生からすれば、特に分けていたつもりは無かったかもしれないが。

また、I上君も、S先生には心酔しているふうだった。
例えば最初の頃、S先生がみんなを相手に何か教えてくれているとき、I上君が僕を何度も見ながら、雰囲気的には「よく聞いといて」とか「ほらね、すごいでしょ」と言うような顔をするときがあった。
それから、いつだったか、相手に腕をもたれたときの崩し方の説明で、I上君が相手をさせられたときのこと。
もちろんI上君は、S先生の説明に合わせて素直に技にかかっていたのだけれど、それで肩が上がって重心が崩れたところから、S先生が軽く投げに移行したら、途中で加減していて転がるほどでもなかったのに、I上君は大袈裟に転がってしまった、――ということがあった。
しかしわざと大袈裟に転がったわけではなくて、思うに、たぶん、かかりすぎてしまったような感じだった。
催眠術や暗示などでもそうだが、『信頼が大きいほどかかりやすい』というのがある。
つまり、師匠の技に対する畏敬の念があるが故に、普通以上にかかってしまったのだと思う。
古いお弟子さんたちの中でこんなに技にかかってしまうのはI上君しか見たことがなかったので、僕は
(よほどS先生のことが好きなんだなあ……)
などと、ちょっと感心してしまった。皮肉などではなく。
だから、取っつきにくい感じはあっても、I上君を悪く思っていたわけではなかった。

I上君の話が長くなったが、I上君に限らず、お弟子さんたちはみんなS先生のことが大好きなようだった。
もちろん、そうでなければ少人数の所帯で長年続かないだろう。
謝礼が高くなっていったのも、S先生が苦労しながら東京(正確には千葉だが)に通って、西郡先生から習い続けているのを、みんなで応援しようと、Y本さんが中心になって幾らかずつ上乗せしていった経緯があったからだそうだ。
人によってはそれが大きな負担になっていたのだけれども、気持ちとしては、みんなそうやってS先生を盛り立て、支えてきていたわけだ。

僕も同じ気持ちだったのだが、最後の方ではS先生に対して、疑問や否定、反発のような気持ちも芽生えてしまった。
それは後々書いていくのだが、まあ、それでも、今でも別に嫌いなわけではない。
S先生と袂を分かつ少し前、僕はS先生に意見することが多くなっていたのだが、僕からすれば、それはS先生のためを思ってのことだった。
『親しくさせてもらっている僕が言ってあげなければ……』
という思いが根底にあった。
――けれど。
“人の為”と書いて“偽”となるように、偽善と取られる場合もあるかもしれない。
他の人、例えばT田さんなどは、S先生に悪いところがあっても、そういうことはすべてわかった上で付き合ってきていたのだろうし、どちらが良かったのかは、難しい。
僕としては、ほどほどの距離感で長く付き合えれば良かったのかもしれないが、それはそれで厳しい面や、それを続けていられない状況があった。

まあ、それもいずれ。今日はここまで。

 

※文中、ST君のことを「TK君」と書いていた箇所があったのに気がついたので、「TK君」→「ST君」に修正しました。
120行目あたり、

三番目はTK君TK君はS井君とともにK原君の職場の上司にあたるそうだが、道場に来れるのは大抵日曜日。
↓ ↓ ↓
三番目はST君ST君はS井君とともにK原君の職場の上司にあたるそうだが、道場に来れるのは大抵日曜日。

――以上、同じ行の2箇所。
(2017/12/07)

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