K拳の“定食”は、上体は左右に負荷がかかる。
力負けすると姿勢が崩れそうになるため、つい両足の幅を横に広く取ってしまいがちになる。
僕がお弟子さんたちの立ち方を見て最初に「おやっ?」と思ったのは、まずそこだった。
もちろん力比べが目的ではないので、基本的には相手の力に合わせて負荷をかけ合うのだが、力の差があれば弱い方はしんどいし、あまり差が無ければ張り合ったりするので、力比べのような状態にもなりやすい。
立ち方は弓歩で行うが、例えば弓歩にしても空手の前屈立ちにしても、基本、両足左右の幅は、よく入門書にも書かれてあるように拳一つ分ほど空けるだけで、半身の姿勢を取ることとも相まって、それ以上広くはしない。
で、K原君との鍛錬だが、彼の場合は弓歩にさえなっておらず、左右に体が持って行かれないように両足の幅を広く取って踏ん張っていた。
僕としては、自分だけ基本通りに立っていたら分が悪い。
それで僕も、
(そんな立ち方でいいのか?)
と思いつつ、実験的な意味も兼ねて、心持ち広くして立ってみた。
すると――
それに気づいたS先生が、僕のそばにやって来て小声で言った。
「足の横幅はあまり取るな。ちゃんと弓歩で立て。その方がしんどいやろ。それでええんや。それが鍛錬になるんや!」
そしてまた時折「腕はこうや」とか、他の部分などについても細かく指導してもらったりした。
……けれども。
どうして自分の弟子であるK原君にはそういうことを言ってあげないのだろう? ――と思った。
あとでわかってきたことも交えて言えば、どうやらそれは、
『言ってわからないヤツには何度も言わない』
ということのようだった。
さらに言えば、好き嫌いの問題もあったようだ。
S先生は時折「俺は鈍臭いヤツは嫌いや!」と口にしていたが、筋が悪いと思える相手には教えるのが面倒臭いらしい。
しかし、そうは言っても、毎月謝礼を受け取っているわけだし、古株の弟子からの紹介で、三年も続いている弟子じゃないか。
(これは気をつけなければ……)
僕は思った。こういう気難しさは厄介だな、と。
それまで僕の遠い記憶の中でのS先生は、一見きつくサバサバしているが、実際には親切に細かく教えてくれる印象だった。
だから昔は、シブチンのT先生よりもS先生に教わるのが楽しみだった。
でも気に入らない相手にはこんなふうに冷たい一面もあったのか……。
だから昔のお弟子さんも、多くが大雑把なままだったのかもしれない。
また、こういったことに関しては今後も触れると思うが、S先生だけでなくT先生、そして同じような影響を受けている人も含めてだが、幾ら昔気質のやり方を受け継いできているとはいえ、大家気取りでツンと構えて『嫌なら来るな』――というような姿勢なのはどうかと思う。
見学に来ただけの冷やかしのような人とか、習いに来てまだ日が浅い人になら、そういう態度もわからなくはないのだけど……。
そしてある日の稽古帰り、僕はK原君にこんな話をした。
中身は何だったか憶えていないが「こんなのを知っている?」と言って口伝を一つ教えて、それになぞらえて、S先生は説明の端々でたまに重要なことを言っているときもあるから、聞き流していると損をするかもしれないよ、と、そんなアドバイス。
まあ、余計なお節介と思われてK原君との関係が悪くなるのも避けたいが、K原君はこのときS道場での主な稽古相手だったから、彼の上達は僕の益にもなる。少しでも何かしてあげられればと思っていた。
3ヶ月あたりの頃だったか、帰りに食事がてら飲もうと誘ったこともあった。親睦の意味も込めて、僕の奢りで。
そんなふうにしながら、まずはK原君と良好な関係を築こうとしていた。
それと実は、K原君から教えてもらおうと思っていたこともあった。
まずS先生への謝礼を、お弟子さんたちが幾ら払っているのか、など。
この頃にはもう週一でお邪魔させてもらうようになっていたと思うが、道場では稽古に混ぜてもらうだけで、僕はS先生から直接教えてもらうような約束ではなかったし、T先生の言もあって、S先生にはT先生への月謝の半分である「5千円」を渡していた。
前にも書いたように最初はワインやビール券だったが、いずれにしても大体5千円だ。
また、僕としては、S先生から多少は教えてもらえることを期待しつつも、基本的には見て盗ませてもらう前提だった。
直接の師匠がT先生である以上、奥のことはT先生から教わるしかないと思っていたので。
でもS先生は色々教えてくれていたし、何かと気にかけてくれてもいた。
だから僕は、将来的にはもう少し謝礼を積むことも想定しておかなければならないと考えていたのだ。
K原君が言うには、月謝は人によって違いがあるとのことだった。
入門時の基本は「1万円」という話だったかな……?
K原君の場合、慣れるに従って兄弟子から謝礼を上乗せするように言われたそうだ。兄弟子たちはもっと渡しているから、お前もそうしろ、と。
で、他の人たちは「2万円」とのことだった。
このときのK原君は、まだ1万5千円だった気がするのだが、もしかしたら他の人たちと同様に、2万円だったかもしれない。
「2万5千円」の人もいると聞いた気がするが、これは僕の記憶違いかも。いつだったかS井君が「僕だって2万○千円払ってるんですよ」と言っていたことがあるので、そのせいで勘違いしているのかもしれない。
あと、練習用具の購入費+年末の飲み会用の積立として「3千円」
前述のように月謝「2万円」として、計2万3千円だ。
もっともこの3千円は、余った分を年末に幾らか返してもらえる。
これを含めてS井君は「2万幾ら」と言っていたのかもしれない。
ちなみにこの3千円は、もちろん僕も払っていた。
また、ずっとあとで聞いたことも加えて言うと、お中元、お歳暮、誕生日プレゼントは、みんなで出し合って渡しているとのことだった。
S先生は品物より現金がいいとのことで、また、みんなも毎回何を渡すか考えるのは面倒だからと、現金にしていたようだ。
お中元とお歳暮は幾らか聞かなかったが、誕生日の場合は「5万円」だった。
その5万円を、道場に来ている主なメンバーの人数で割って出し合っているとのことで、つまり10人で出し合えば一人5千円ずつということになる。
お中元とお歳暮は、バランスから考えれば3万円くらい……かな?
もしかしたら同様に5万円を渡していたのかもしれない。
なので、月謝2万円として、ざっと年間30万円くらいの支出だろうか。
新年会と夏の飲み会なども含めるともう少しかかるだろう。
あと細かいが、交通費やたまに発生する稽古帰りの飲食、飲み会があるときの二次会なども加えると、30万円をかなり越えてしまうだろう。
――とは言え、金額に関しては、まあ、大体そんなものかな……と思える範疇だった。
僕はその倍なのだ。あとになるとそれ以上だった。
僕の場合、月謝はこの時点で両先生に計1万5千円。T先生との飲み代を毎回一人で負担して、お中元、お歳暮、誕生日プレゼントは二人分だ。
S先生への月謝の「5千円」については申し訳なかったが、ひとまず当面は様子見を決め込むしかないという思いだった。
ところで、前にK原君を「30歳くらい」と書いた。
その頃に配られた名簿があれば正確にわかるのだが、ちょっと見当たらないので、このまま記憶の限りで続ける。
彼は既婚者で、子供は二人……だったかな?
仕事は公務員で役所勤めだったが、残業も多くて非常に忙しいのだそうだ。
年齢的にも、仕事に慣れていて役職にもまだ就いていないあたりが、仕事を押しつけられやすく、給料もそれほどでもなくて、しんどいようだ。
そして、子供が小さいため奥さんは専業主婦、家計は結構苦しいとのことだった。
そんな事情もあって、実はK原君はこのあとしばらくして、やめることになってしまうのだった。
確か、年末年始の飲み会のときにはまだ居たと思うから、それよりあと、2月か3月あたりだったかな……?
僕自身は、稽古帰りに食事を、二度目に誘ったときに、彼がやめることを聞かされたのだったと思う。
「ヨメの理解が得られなくなってきてしまいまして……」
――と。
この事情については当時、K原君からは口止めされていたのだが、その後、K原君の職場の先輩であるST君やS井君からも聞かされたし、あとになるとうっすらS先生の耳にも届いていたようだったから、書いてもいいだろう。
少なくともK原君がどうとか、角が立つ話ではあるまい。
まあ、このブログはS一門の何人かは読みに来ていると思うので、僕がここで内情を書いていることについては、快く思っていない人もいるだろうけれども……。
で、K原君の奥さんとしては、月謝だけでも痛いが、まあ、男の付き合いも考慮して飲み会までは理解できる、しかしお中元、お歳暮、さらには誕生日まで、しかもそれがバカにならない金額で、となると、
「どうしてそこまで?」
――と、ついには臍を曲げてしまったそうだ。
「まあ……普通は、そうなっても仕方が無いよね」
僕は、K原君と奥さんの、どちらにも同情的な思いだった。
但しK原君は、武術自体が嫌だというわけではなくて、金銭的な事情がなければ続けたいとのことだったので、それで僕は、K原君に提案をした。
『僕は稽古相手が欲しいし、よかったらたまにでも道場以外で一緒に稽古しないか。もちろん僕には謝礼など払わなくていいし、続きは僕が教えてあげるから』
――と。
しかし、それはS先生や兄弟子たちに悪いからとのことで、K原君は僕の提案を辞退した。
ちなみに、K原君がやめる際に僕がこういうお誘いをしたことを、ずっとあとになってS先生に話したが、S先生は、
「そういう事情なら二人で稽古を続けてたとしても、オレは別に気にせえへんかったけどな。それでまた来れるようになったら来たらええし……」
と、いうようなことを、おっしゃっていた。
ただこれは、僕のK原君へのお誘い云々に関しては理解があるにせよ、一方でS先生の金銭感覚に対する一貫性の無さも示している。
それについては追々書くので、ひとまずここでは割愛するけれども。
蛇足だが、K原君と稽古帰りに二度目の食事をしたときのことを、もう少し書くことにする。
その日、彼は車で来ているとのことで酒を飲まなかった。
「そうか。じゃあ僕も……」
「いえいえ、hideさんはどうぞ飲んでください」
「そう? じゃあお言葉にあまえて……」
――と、僕だけビールを飲んだ。
電車で帰るつもりだったが、K原君が送ってくれるというので、入った店には12時過ぎまで居たと思う。
K原君が帰るのは岸和田方面だったと思うが(翌日の仕事の都合でそっちに行くと言っていたのかもしれない)、とにかく、そこから僕を送って帰っても1時間以内というところだったろう。
方向的には、K原君が12時の方向とすれば、僕の家が10時の方向だが、距離はもちろん僕の方が近く、僕のところを経由して帰る段取りだった。
「じゃあ、ちょっとでも早く着けるように高速を走ってもらえばいいよ。高速代は僕が出すから」
そう言って僕は、車に乗るとその分のお金を渡した。
そして、降りる場所を言っておいたのだが、どうしたことか「あれっ?」と思ったのも束の間、K原君は一つ手前あたりで降りてしまった。
「hideさん、降りるところを間違えてしまったみたいです。どうしましょう? ここからどう行けばいいですか?」
「ええっ? 僕は車に乗らないし、こっちに引っ越して来てから周辺の地理には疎いんだよね。どうにかして僕が言った降り口あたりに辿り着いてもらえないかな。そこからは口頭で道を説明できるんだけど……」
それまで僕は、仕事をもらっていた今の住まい近くの人と大阪市内から車で戻ってくるときに憶えた道しか頭に無かった。大阪市内からタクシーで帰ってくるときも、それで説明していたし、もしくは近所にある大きな病院の名前を言って、そこを目指してもらったりしていた。
そしてこのとき、カーナビなどはまだほとんど普及していなかったし、今のように携帯でネットの地図を確認することもできなかった。
……で、そこからすったもんだして、K原君は迷走を繰り返し、明後日の方向に走った。
田舎だからか、コンビニもなかなか見当たらなかった。もちろん今ならあちこちにすぐあるはずだけれども、そのときは何故か真っ暗で寂しい道をただ走るばかりだった。
で、ようやく夜中に空いている何かの店を見つけて、道を聞こうと降りてみたら、何と大阪狭山市というところまで来ていた。
K原君は、眠気も襲ってきているようで、稽古の疲れもあって疲労困憊の様子。「勘弁してくれ~」というような顔になっていた。
途中で眠気がピークになって、休憩がてらコーヒーを飲んだ気もする。
僕は最初、K原君が道を間違えても「ありゃま」ってな感じで、呑気にドライブ気分で話していたのだが、長々と迷う内、さすがに可哀想にはなってきていた。
けれど、僕のせいみたいな顔をされても、こちらも困る。
それからどうにか、僕が言っていた高速の降り口付近に辿り着き、僕の家に着いたときには2時半か3時くらいになっていた。
K原君は完全に不機嫌な顔になっていて、辛うじて挨拶はしたが、ほとんど無言に近いようなノリで別れて、帰って行った。
僕からすれば、K原君に気を遣って、技を教えて、飯を奢って、高速代も出して、こんなふうになるのが本意であるはずがない。
このときのことをK原君がどう思っているのかということは、その後も気になるところだったが、まあ、次に顔を合わせても「この前は悪かったね」と言った程度で、それ以上は触れなかった。
そして間もなくK原君はやめてしまったので……。
K原君がやめてからは、S道場での僕の相手は、主にT先生になった。
T田さんやTKさん、京都のI内君、その他の人たちも稽古相手になってくれていたが、一番下のK原君がやめてしまったので、T先生は自分が面倒を見ようとしたわけだ。
だが雰囲気的には、S先生やT田さん、他のお弟子さんたちと僕が稽古をするのを、心持ち遮っているようなところもあった。
はっきり言えば、僕が早く上達するのを阻害しようとする面、また、S先生やT田さんと親しくすることに関して嫉妬するような面があったように思う。
嫉妬と言っても、男女のそれのような思いではなくて、例えれば自分のおもちゃを友達に貸したがらない子供のような感情だったのだろうと思う。
さて、記事の中での主な時期はまだ行き始めて数ヶ月以内のことなので、次回以降もK原君には多少触れることもあるかと思う。