中国拳法、武術、格闘技など、徒然気ままに…

太極拳ってど〜よ!?

徒然エッセイ

力の必要性

投稿日:2008年1月15日

高校時代の話が一段落したところで、ちょっと時間を飛んでみる。
ちなみに高校卒業後しばらくは、記憶に残っているほどの喧嘩話は無い。
(つーか、大人になってもまだあるんかいって?(^^;ゞ)

今の流派で武術を学び始めたのは、高校卒業後すぐだった。
(※2007/01/03『道場見学の日の思い出』参照)
故あって一旦道場を抜けるまで、4年近く太極拳やその他の拳法を習ったが、自分が強くなったという実感が特に得られたわけではなかった。
もちろん、その間に身についた知識や技はあったし、それなりに上達はしただろう。
しかし、例えば誰かに喧嘩を売られたときに太極拳を駆使して撃退できる(技が使える)という自信は無かった。
少し空手をやっている者とふざけて軽い組手をやったら、自分も空手と変わらないスタイルになってしまうし、部分的には、流すように受けたり、はたき落としたり、幾らかは太極拳っぽい手を使っても、いかにも太極拳らしい戦い方など、とてもじゃないが、できない。
…というよりも。
そもそも太極拳の戦い方とはどういうものか、よく判らなかった。
「相手がこう突いてきたらこう…」
という用法は教わっていても、一つに対して一つ、というのがバラバラにインプットされているだけだ。
体の使い方は多少解った気になっていても、ただそれだけだった。
どうすれば太極拳らしく使えるようになるのか、答えが見つからなかった。

まだ先生のところに居た頃、兄弟弟子たちとの、たぶん共通の思いとしても、
「とりあえずこれくらいは使える」
という、ちょっとした自信というか、そういう一区切りに、いつたどり着けるのかということが見えなくて苛立ちを覚えていた。
もちろん、使える使えないというのは個人の技量の問題もあるのだが、それ以前に、何かまだ教わっていない核心が幾つもあるようで、隔靴掻痒の思いだった。
その足りない部分は、口伝か何かで、それを教えてもらっていないからできないのだと思っていた。
たぶん兄弟弟子たちも同様で、特にK阪さんなどはそのようなことを漏らしていたように記憶している。
(※K阪さんについては2007/03/22『兄弟弟子 Part 2』参照)
だが、そろそろ何か教えてもらえるかも知れないと期待していた頃、外功鍛錬を始めるようになった。
僕たちは混乱した。

外功鍛錬を重視するようになったのは、ウチの先生方がとある先生に師事したことで、その指導によるところが大きい。
とある先生といちいち書くのは面倒だし歯切れが悪いので、仮に“X先生”とする。
X先生に関することやその指導内容については、詳しく書くことはできない。
ともかく、当時、そのような練習をするようになったときは、
「本当に使える太極拳にするため」
とのことだった。
僕は、
「まあ、こんな練習も要るよな」
程度に思っていたのだが、特にK阪さんはショックを受けていた。
K阪さんは、外功鍛錬そのものに反対だったわけではない(と、僕は解釈している)。
例えば現代的な筋トレに関する知識はかなり豊富に持っていたし、筋力の必要性を感じて、ご自身では筋トレも行っていたようだ。
しかし太極拳の技術論として、結局そこに行き着いて仕上げとするのだったら、フルコンタクト系空手と変わらなくなってしまう、という思いもあって、どのように整合性をつければいいのかわからなくなってしまったのだ。
そもそもウチの流派自体(少なくとも僕が教わっていた先生方は)、元から「力は要らない」という考えではなかったし、型の中で筋力を養うような練習も行っていた。
しかし、それ以上の筋トレとなると、
「力に力で対抗することになってしまわないか?」
という疑問が生じる。
だから僕も、
まったくショックで無かったと言えば嘘になる。
今までひたすら力を抜く練習をやって来て、力はまったく要らないとまで極端な考えでは無かったにせよ、
「自分より大きい者や力が強い者に、力で対抗せずに勝てる」
というのを夢見ていたし、その方法論として太極拳があり、型を練ることが第一義と教えられてきたのに、急に外功鍛錬に重きを置くようになったことにはちょっと面食らった。
今まで覚えてきたことを一旦壊してまた再構築するようで、その間にも新しい武術の型を練習したりで、気が遠くなる思いだった。

しかし…。
先生方も若かったし、まず先生たちがX先生の指導を受けてある程度身になってから、その指導が僕たちに降りてくるわけだから、そのショックは先生たちも通ってきた道だろうと理解した。
そして先生たちが納得して続けているのなら、この先に何かあるのだろう…と。

今まで僕が先生たちから学んだことは、例えば松田さんの本やその他の関連書籍、雑誌などの知識と照らし合わせれば、必ずしもそれと一致しないが、これはこれで、ちゃんと伝わってきているものなのだと納得させられることばかりだった。
その先生たちがX先生に師事して学んでいるのだから、そこは信じるしかない。

また、X先生は、ご自身による著書などは無くて世間的には無名だったが、日本武術や中国武術の造詣が深くて、著名な武術家との交流もあったし、著名な人でX先生に学んでいる人もいた。
それが、単純に、
「筋肉ムキムキになってパワー拳法やりましょう」
のノリであるはずがない。

だがそんな時期、僕は家庭内のごたごた諸々があって、そっちの方でも気持ちの余裕が無くなって、道場を休むようになった。
結果的には家を出ることになって、僕は一旦道場を去った。
しばらくして一時復帰もしたが、また去って、それが長いブランクになってしまった。
(※2007/03/25『迷走』参照)
ちなみにK阪さんは、僕が抜けたあとも確か1年半くらいは居たはずなので、その間にどう考えたのかは、よく知らない。

太極拳はこうすれば使えると初めて少し解りかけた気になったのは、皮肉にも一人になってからだった。
もちろんベースになったのは今まで学んだことだし、外功鍛錬を少しでも経験したことがヒントになった。
また、一人になってから細々とでも研究を続けていたことで、人との出会いや交流、喧嘩の経験、人生上の失敗や苦労、諸々…が、閃きにも繋がった。

「力が要る」と言っても、力任せでも、力むことでもない。
単純に、最後は力が物を言うと言いたいのでもない。
もちろん、
「力に力で対抗しない」
というのは、太極拳に限らず武術の基本的な理合いの一つであり戦術でもある。
力を抜くという技術があるのも確かなことだ。
しかしそれだけでは、
力を抜いて相手の攻撃をいなし、自滅を誘う、という理屈だけでは、
現実そのように戦うことは難しいし、少なくとも僕には何かが足りないと思えた。
…簡単なことだ。
ヒトの体を動かしているのは筋肉だし、相手に一定以上のダメージを与えるには、ある程度は土台となる筋力が要るということだ。

だから、その後の練習がどうなっているのか気になっていた。
色んなことがあって、年月が過ぎて、、
30歳過ぎに大怪我をして一時はあきらめてしまった。
その傷が癒え、生活も幾らか落ち着いて来た頃、性懲りもなくまた武術を再開したわけだが、もし先生と再会することなく、また教えてもらえることがなかったら、ジムで筋トレをやっていたかも知れない。
ただその場合、昔の自分より幾らかマシでも、もっと狭い範囲のことしかできなかっただろう。
幸い今は、昔習ったことの続きや新たなことも教わりつつ、外功鍛錬も行っている。
まー今さらどれだけ強くなりたいとか他人への競争意識とかも無いけど、ある程度納得できる、自分が思っている最低限のレベルに数年以内に辿り着ければ、僕の考えもこの流派に戻ったことも間違っていなかったと言えるだろう。…と思ってる。。

僕が力の必要性を感じるようになった経緯やエピソードはまた追々述べる。

 

以下、コメント

旧ブログからの移転にあたり、掲載当時のコメントはこの下に“引用”のかたちで付けておきます。管理人からのレスは囲みの色を分けてわかりやすくしておきます。
なお、現在はコメント機能は使用しておりません。ご意見、ご感想等はメールにてお願い致します。

中国拳法おもしろそうですね。
太極拳は力を使わない拳法というイメージがありますが、筋力をトレーニングする方法を否定するのではなく、うまくとりいれられればいいですね。
そういう人を応援するようなサイトがありました。

Posted by ドリキタ at 2008年04月05日 15:16

はじめまして。検索していてこちらにたどり着きました。

道場で技術を長年修行することでそれがいつか実際に役立つレベルに達すると信じること……私もかつてそうでした。
私が今も所属する道場は某有名流派の支部なのですが、流派の伝統的な技とスパーリングのスタイルが無関係に並立しています。最初は疑問にも思わなかったのですが、スパーで使えない技を練習すること、スパーではいくらがんばっても自分より強い相手には勝てない、等に対する疑問を抑えきれなくなりました。
今は道場とは距離を置いて、様々な書籍、ネット、セミナーからヒントや刺激を得ながら、私と同じような観点を持つ仲間と稽古をやってます。
教えられるだけ、やみくもにやるだけの立場を離れてみて見えてきたことも大きいと感じています。

hideさんの書かれていることが私の場合と似ているように感じましたので、コメントさせていただきました。
失礼いたしました。

Posted by 青人 at 2008年04月06日 11:05

>>ドリキタさん
コメントをありがとうございます。
ただ、紹介されていたURLは、すみませんが削除させていただきました。
武術と関係ありませんし、商材の宣伝目的の書き込みであるように思えましたので。
ご理解のほどよろしくお願い致します。

Posted by hide at 2008年04月19日 23:57

>>青人さん
初めまして。コメントをありがとうございます。
返信が遅れてすみません。
しばらくここを放ったらかしにしてしまっていました。。(^^;ゞ> 私が今も所属する道場は某有名流派の支部なのですが、
> 流派の伝統的な技とスパーリングのスタイルが無関係に並立しています。
(※以下略)

最近では中国武術の流派でも、組手やスパーリング、ミット打ちなどを重視するところが増えてきていますが、大抵は、套路など伝統的な技術習得とのギャップをどう埋めるか、答えを出せずに試行錯誤しているようですね。
松田さんや雑誌『武術』の頃に套路の習得が実戦技法に繋がると信じられていたのが、その後、幾らか崩れてきているわけですが、それでも、套路の習得を最上とする考えも根強く残っています。
一方、組手やスパーのための技術を磨いても、やはり不完全という部分はあると思いますが、型や推手や約束組手だけよりは、多くの人が実戦に近い勘を磨くための近道になるのではないでしょうか。

…しかし。。

中国武術や古武術に傾倒した人の多くは、組手やスパーや西洋式の筋トレで得られない強さを期待したわけです。
だからこそ伝統に拘るのでしょうが、そのことが返って頭を固くしてしまっている気もします。
個人的な意見としては、
中国武術や古武術と西洋の格闘技や現代の筋トレ理論とが、どれほどの差異があるのかは、よく検証してみる必要があると思っています。
そして、現代の方が優れている部分があれば、そこは取り入れるべきです。
ただ、現代の格闘技や筋トレ理論はほぼ公開されていますが、武術世界は閉鎖的ですので、自分の学んだ範囲のものとしか比べられません。
そこは簡単に答えを出していいとは限らないので、注意が必要です。

> スパーで使えない技を練習すること、
> スパーではいくらがんばっても自分より強い相手には勝てない、
> 等に対する疑問を抑えきれなくなりました。

解ります。
ただ、ちょっと言葉に拘れば、武術的には、スパーで使えなくても実戦で使える練習ならばOKでしょう。
しかし、ここが議論を呼ぶところですね。。
套路にしがみつく人たちの多くは、組手やスパーでは使えなくても実戦では使えると信じています。
一方、組手やスパーを多く経験している人は、
「組手やスパーで使えない殺陣のような技が実際に使えるはずがない」
と言うでしょう。
僕は、武術的意味合いを追求して出来上がった型なら、套路習得も有用だと思っています。
しかし、そのエッセンスを取り出して、現代的に消化する工夫も必要だと思います。

> 今は道場とは距離を置いて、
> 様々な書籍、ネット、セミナーからヒントや刺激を得ながら、
> 私と同じような観点を持つ仲間と稽古をやってます。

なるほど。。
まぁ、武術世界は閉鎖的で教えてもらえないことも多いわけですから、ある程度のことが解ったなら、自分なりの工夫を取り入れるのは大事なことだと思います。
但し、解った気になっていないか、自己を振り返ることも大切です。
そういう意味では、僕などは、なかなか自分に自信がもてないせいもありますが、学び続けながら工夫していくというスタンスです。

青人さんも頑張って続けていって下さい。
またよかったら覗きに来て下さい。

Posted by hide at 2008年04月20日 01:01

こんばんは、hideさん。ご返事をありがとうございます。

中国武術は私にとって専門外なのですが、伝統的な稽古と同時に現代格闘技的な取り組みをされている流派が存在するのですね。そういえば以前、ローカルな散打の大会を見に行くと、選手の皆さんは所謂中国武術的スタイルではなくキックボクシング的な戦い方をされていました。
自流派の稽古論と現代的なトレーニング論の比較検討については私にはよくは分かりません。例えば、ある部分は脱力理論(?)、ある部分は加圧トレーニング……といった具合に構成できるのかもしれませんが、それが“自分なりの戦い方”というものの中にどう構成されるのか。「群盲、象を撫でる」のように再構成してみたらトンデモなものになるかもしれないなとも想像します。
現代格闘技的アプローチを否定なんてできないです。それは何度も通らねばならない関門なのかなと思います。打たれる痛さや怖さ、独善的な思い込みを壊される等を体で分かっていない限り、どんな稽古をやっても意味が無いようにも思えます。
それが稽古を検証することにつながるのかな?

また、そう思い込んでいる自分を客観的に振り返ることは大切だと思います。
そういう意味でhideのおっしゃる、学びながら工夫するという態度が一番失敗しない道なのかもしれません。

リアカーを挙げるご老人のお話は面白いですね。取っ手を帯か何かに引っ掛けて逆さに持ち上げる格好だったのかな?色んな見方ができそうです。

長文失礼いたしました。

Posted by 青人 at 2008年04月23日 00:13

>>青人さん
コメントをありがとうございます。

> そういえば以前、ローカルな散打の大会を見に行くと、
> 選手の皆さんは所謂中国武術的スタイルではなくキックボクシング
> 的な戦い方をされていました。

立ち技主体で急所禁止などのルールに縛られると、結局、
ムエタイスタイルが一番しっくりきやすいのかも知れません…。
ただ、伝統套路を重視する中国武術の人が套路にあるような技をまったく使えないとすれば、何だか滑稽な気もしますね。。(^_^;)
その散打大会に出ていた人がみんな、伝統を捨ててそういうスタイルを採用していたのなら、それはそれで解りますが…。

> 現代格闘技的アプローチを否定なんてできないです。それは何度も
> 通らねばならない関門なのかなと思います。打たれる痛さや怖さ、
> 独善的な思い込みを壊される等を体で分かっていない限り、
> どんな稽古をやっても意味が無いようにも思えます。
> それが稽古を検証することにつながるのかな?

まぁ、そうだと思います。
型稽古もしんどさはありますが、実質的な痛みも判らなければ、机上の空論になってしまいかねませんからね。。

あと、現代のトレーニング理論との比較も、柔軟かつ積極的に調べる姿勢で見れば、共通の部分も多いことに気づくと思います。
今までなかなか教えてもらえなかったことに先に気づいたり、教わっているその時点での狭い解釈しかなかった部分の理解が深まったりして、後になってみればやっぱりそうだったというようなことも、僕の経験的には、ありました。
中国武術や古武術の人は、僕もかつてはそうでしたが、西洋的な考え方や現代の科学的アプローチを否定的に捉えすぎる傾向があると思います。
「先人が何代もかけて築き上げてきたのだから簡単な理屈では捉えきれない」
とする考えも解りますし、それこそ、青人さんも書いていた
“群盲、象を…”
になってしまうのを恐れる部分もあるのでしょうが、全体を理解するためにも他の見地から検証してみるのは無駄ではないと思います。

稽古の検証については、僕的には、例えば、西洋式の近代トレーニングで、何のために、どこを、どんな方法で鍛えるかというのと、武術の昔の鍛錬法は、考え方の部分で案外似ていたりするということです。
返って近代式の方が効率的な場合もあると思います。
ただ、効率的であっても、痛みや苦しみをなるべく除外する方向になってしまうと、武術に必要な精神面を損なう場合もあると思うので、そこは注意すべきでしょうけれど。。
型の中にある技にしても、分解してみれば他の格闘技にある技や、応用可能な技だったりすることも多いと思います。
もし、このような僕の解釈が間違っていたとしても、一つの流派を盲信し師匠を教祖のように崇めて学ぶよりは、客観性を持っていた方がいいと考えています。

> リアカーを挙げるご老人のお話は面白いですね。
> 取っ手を帯か何かに引っ掛けて逆さに持ち上げる格好だったのかな?

ありがとうございます。
おじいさんがリヤカーの持ち上げたときの描写は、ちょっとわかりにくかったかも知れませんね。
大きな熊手を両手で持つときと同じように想像してもらったらいいと思います。

Posted by hide at 2008年04月23日 07:14

こんばんは、hideさん。またもご返事をありがとうございます。(前回の私のコメント中、一ヶ所敬称を失しておりました。失礼いたしました。)

自由な攻防の中で自流派の伝統的な技・理論が全く使えない……という状況は私も疑問に感じます。以前私も使おうと努力してみて失敗した過去があるのですが、今ではこう感じています。
使うことが出来る状況ではないのに、リアルタイムで敏捷に反応する相手に対して無理に特定の技を当てはめようとしていたからできなかった、と。
なので、技が成立する、しないという中での“相手と自分の関係性(?)”が現在の私の関心事になっています。(言葉でうまく伝えられないのですが……)
ですから鍛錬ということが現在の自分の関心から外れてしまっています。軽視するわけではありませんが。
私の流派では元々伝統的に伝わる鍛錬法が突き蹴りの稽古以外に無く、他に鍛練的といえば拳立てやランニング等になってました。地道にやってみて、前に出る勢いのようなものは強化されてたような気がします。が、相手と正面衝突すると硬直したように動きが不自由になる場面が気になりました。
そういった際でもフリーズせずに対応するということが脱力の目指すものなのかな?とは想像しています。
特に私のような非力な人間ほど本能的に硬直したような力に頼る傾向も感じます。そういう傾向をも視野に入れて鍛錬と脱力を捉えられればいいのですが。
そういう意味でhideさんの最新の書込みはヒントを与えてくれているように感じました。建築関係をやっている叔父がいるのですが、私などと比べて随分体の質が違うなと感じます。

リヤカーを挙げるご老人はこんな感じかな?


□□□□□□   /|
□□□□□□-o--o-
□□□□□□   /|
/ |
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長文失礼いたしました。

Posted by 青人 at 2008年04月29日 22:14

>青人さん

こんにちは。コメントをありがとうございます。

> 使うことが出来る状況ではないのに、
> リアルタイムで敏捷に反応する相手に対して無理に特定の技を
> 当てはめようとしていたからできなかった、と。

それもそうですね…。。
例えば僕がやっている中国武術の世界では、そういう相手にも対応可能な技が“型”(套路)の中に集約されていて、
「型を練ることによって攻防技術が養われる」
というのが、当初思われていたことでした。
(そう信じている人は今も多いですが…)

しかし、青人さんも言うように、特定の技(僕の場合で言えば、型の中の一つの技)をそのまま型通りに使うのには無理があります。
一本組手のように相手に約束通りに突いてきてもらい技の説明をしてみせるときと同じように、実戦でもたまたま使える場合はあるかも知れませんが、お互いに何らかの心得があって、構えて対峙した場合は、そう簡単にはいきません。
もちろん、型にも、最初に教わる用法とは別に実戦的な用法はありますが、それは結局、シンプルな体捌き+手技・足技…ということになってしまうと思います。
(そのシンプルなところに行き着くまでの過程を大事にして型を練るという部分もあるとは思いますが、なかなか遠回りではありますね…)
そして、実際の攻防の中では相手との様々な駆け引きがあるので、そこを無視して、
「型通りに使える」
というのでは、説明が足りないでしょうね。。

技を当てはめると言えば、合気道の人で、
「合気道の技を使うために最初の打撃を重視する」
という人が居ますが、そもそもその打撃をどう当てるのか、そして、当てられるのならその打撃で倒せばいいじゃないか、という矛盾があります。
これも、無理に当てはめようとしている一つの例だと思います。

> なので、技が成立する、しないという中での
> “相手と自分の関係性(?)”が現在の私の関心事になっています。
> (言葉でうまく伝えられないのですが……)

…まぁ、たぶんそこは、僕も書いた「相手との様々な駆け引き」の部分でしょうね。
その他、位置関係や状況などもあるでしょう。
で、そのあたり、中国武術や古武術では“気”の話になってくると思うのですが、これがまたなかなか難儀です。。

> 私の流派では元々伝統的に伝わる鍛錬法が突き蹴りの稽古以外に無く、
> 他に鍛練的といえば拳立てやランニング等になってました。

なるほど。。
青人さんがやっているのは空手なんでしょうか?

> 地道にやってみて、
> 前に出る勢いのようなものは強化されてたような気がします。
> が、相手と正面衝突すると硬直したように動きが
> 不自由になる場面が気になりました。

僕が思うに、体を鍛えることの基本的な目的は、相手に圧されない精神と体を作ることです。
その上で技やら何やらがあるわけですから、前に出る勢いは大事だと思います。
しかし、「硬直」「不自由」というのは、精神的な緊張状態も関係しているのではないでしょうか。
体を鍛えることで自信をつけ、その緊張を克服するのが基本ではありますが、必ずしもそれだけで解決されることではない気もします。
それに体格や力だけで比較すれば上には上が居るわけですし、幾ら体を鍛えても限界があります。
工夫が要るところですね。。

> そういった際でもフリーズせずに対応するということが
> 脱力の目指すものなのかな?とは想像しています。

う~ん。。
攻防の中で力まないようにとはよく指導されますが、相手と触れ合う前ならともかく、バシバシ当て合う間には、力が入るのはごく自然なことではないでしょうか。。
この場合、「力む」ことと「力が入る」ということを分けて考えればいいのではないかと思います。
カチカチで手も足も出ないというのは困りますが、それは力むということであって、速く動くために力が入る、相手を打つために力が入る、というのは、当たり前のことだと思います。
それを、脱力に拘る人は、「力む」も「力が入る」も同じに捉えて、すべての力を抜かなければならないと考えるところに誤解があるような気がしています。
(僕の方が誤解をしているのかも知れませんが…(^_^;)(笑))

相手の前で、あるいは攻防中、カチカチにならないために力みを取ることも一つだとは思いますが、それは訓練であって、技に生かすための脱力とは違うはずです。
技術としての脱力は、今までの記事の中でも書いた、弛緩と緊縮、あるいは緩急などの使い分け、瞬間的に相手の力をコントロールする、などに使われるものだと思います。
まーあまり詳しくは書けませんが、今後の記事でも幾らかは触れる予定です。
合気道や古武術をやっている人なら多少ピンときているかも知れませんね。

> リヤカーを挙げるご老人はこんな感じかな?

ちょっとそのテキストアート、わかりにくいです。。(^^;
リヤカーの形状は、上から見たら -□ ←こんな感じです。
この棒(柄)の部分を両手で持って、リヤカーを頭の上に持ち上げたのです。
もしくは、槍で四角いものを串刺しにして持ち上げる感じを考えてみて下さい。
想像できたでしょうか。。

Posted by hide at 2008年05月02日 04:02

こんばんは、hideさん。

型と鍛錬について、hideさんがご自分なりに消化・納得しつつ稽古を進めようとされていることが良く伝わってくるように感じます。また、そういう方向へと良き師、仲間により導かれている面もあるのでしょうね。

「型を練ることによって攻防技術が養われる」という暗黙の考え方は我が流派にもあり、迂遠な手順からシンプルな動きへと集約することが実戦用法であるとの伝統的な教えもありました。
しかし「相手との様々な駆け引き」「位置関係や状況」が絡む実際問題では空論に過ぎない教えも多々ありました。例えばパンチを引き寄せて捕る、ということを教える方もいらっしゃったのですが、これはただ一方的に叩かれてしまうケースを作り出す可能性が高いように感じます。フェイントやコンビネーションへの対処についても何の示唆も含んでいないように感じられました。
現在では、出たとこ勝負ではなく様々な型から自分にとって相手に対処しやすいものをアレンジして予め用意しておく、とか実際の場面に型を当てはめようとするのではなく逆の考え方もありうるのではないか、などと考えて取り組んでいます。間、先、本能……という言葉が一番近いのかな?(「気」は研究していないのでよく分かりません)
そんな方向性の中に、自分より優位な者には敵わないという状況を逆転させる可能性が僅かにあるかもしれないと感じています。
そんなものですから鍛錬に対する興味を顕著に失ってしまっています。しかし「体を鍛えることの基本的な目的は、相手に圧されない精神と体を作ること」は真実でしょう。そこを無視するとちょっとしたことで破綻するような気もします。よい鍛錬法を見つけたいです。

私の属する流派は空手ではないのですが、当身、投げ、逆関節を含む日本武道です(とはいっても、もう実質的に離れてしまっていますが)。

合気道の型稽古は、現在では打ち込まれた当身に対してかけてゆく内容ですが、戦前では逆に自分から当身を打ち込みかけていたそうです。
「合気道の技を使うために最初の打撃を重視する」とはそういう意味なのかな?

脱力についてはhideさんの書かれたイメージがしっくりきますね。力を抜きっぱなしでは蹂躙されるだけで、技がかかる瞬間は力を使っているのは確かです。ただその寸前はリラックスしているような気もしますので、まさしく緩急なのかな、と感じます。
水が上から下に流れるように自然なことは当たり前なんだ……のような説明を聞いたことがあります。ですが逆に、蒸発した水が下から上に登るのも自然界のありふれた現象なんだという文章を読んだとき、私はコロンブスの卵みたいで面白いなと感じました。
事実の一面のみを捉えて、その先入観を普遍的なものであると解釈してしまうと端的に脱力=力を一切入れてはならない、となるでしょう。それも人間の習性のあらわれなんでしょうが、別の観点を持つとか、感性に正直になることでそこから自由になることも出来そうに思えます。

再び、リヤカーに挑戦します。

-----------------------
||||||||||||  | O |
||||||||||||  -------
||||||||||||    ||
------------   ----
|  |
|  |
-----------------------
こんな感じかな?

Posted by 青人 at 2008年05月05日 22:23

>青人さん

こんにちは。コメントをありがとうございます。

> 型と鍛錬について、hideさんがご自分なりに消化・納得しつつ稽古を
> 進めようとされていることが良く伝わってくるように感じます。
> また、そういう方向へと良き師、仲間により導かれている面も
> あるのでしょうね。

実はウチの流派では、今はあまり型(套路)を重視していないんです。
しかし個人的には、型の価値も感じていますし、型の練習も好きなので、特に太極拳は続けています。

> 例えばパンチを引き寄せて捕る、ということを教える方も
> いらっしゃったのですが、これはただ一方的に叩かれてしまうケースを
> 作り出す可能性が高いように感じます。
> フェイントやコンビネーションへの対処についても何の示唆も
> 含んでいないように感じられました。

「引き寄せて捕る」とは、を掴んで捕るということでしょうか?
だとして、例えば空手の引き手なども、相手の手を掴んで採る(捕る)意味があると言われていますね。
考え方としては、相手の手を捕らえて一時的に動きを制し、自分の攻撃を当てやすくする、ということだと思います。
そのように、掴むことも含めて「相手の手を利用する」という意味なら、テクニックとして存在すると思います。
ただ、型の初伝的な用法に縛られてしまうと、現実的(実戦的)でない動きになり、おっしゃるように、相手につけ込まれるような状況になってしまいかねないと思います。

>  現在では、出たとこ勝負ではなく様々な型から自分にとって
> 相手に対処しやすいものをアレンジして予め用意しておく、
> とか実際の場面に型を当てはめようとするのではなく逆の考え方も
> ありうるのではないか、などと考えて取り組んでいます。

なるほど。。
ただ、その「予め用意しておく」という部分は、型の意味と重なるところがあるのかも知れませんよ。
僕的には、型はやった方がいいと思っていますが、上手くなり過ぎてもいけないと思っています。
まず基本に忠実な動きを心がけながら、身体操作(力の伝達)感覚や、部分的な力の入れどころ、呼吸との一致、などなど、自分との対話や矯正に努めた上で、今度は逆に、それに縛られないようにもしなければ、型にはまった窮屈な動きになってしまう気がします。
それに最初に教わる基本=実用的(実戦的)とは限りませんから、そこに縛られない工夫も必要ですね。。

> 間、先、本能……という言葉が一番近いのかな?(「気」は研究して
> いないのでよく分かりません)

“気”については今後の記事でも多少書くと思いますので、ここでは省略させてもらいますが、僕的な解釈で言えば、青人さんの言う「間」「先」などとも重なると思います。

>  私の属する流派は空手ではないのですが、当身、投げ、逆関節を含む
> 日本武道です(とはいっても、もう実質的に離れてしまっていますが)。

そこだけ聞くと少林寺拳法かな?…とも思ってしまいますが、型もあるのなら、僕と同じ柳生心眼流だったりして?
いやまぁ、別にこれ以上の詮索はしません(笑)

>  合気道の型稽古は、現在では打ち込まれた当身に対してかけてゆく
> 内容ですが、戦前では逆に自分から当身を打ち込みかけていたそうです。

それは知りませんでした。
自由組手のようなものがあったということなのでしょうか?

>  「合気道の技を使うために最初の打撃を重視する」とはそういう
> 意味なのかな?

いえいえ。舌足らずでした。
投げや関節などの技をかける前に、当て身を使って相手の動きを一時的に封じ、その隙にかけるということです。
まぁ、それは確かにテクニックとして昔からあるとは思いますが、技をかけるために予め当て身を入れることをセットとして考えるなら、
「何故、当てられるのなら、倒せる当て身を考えないのか?」
となってしまう矛盾を言ったわけです。

> 再び、リヤカーに挑戦します。

う~ん。。なかなか伝わらないものですね。。
まずリヤカーは、上から見たら -□ ←こんなかたちです。
老人は、この柄の部分を、リヤカーの方を向いて槍のように両手で脇にかかえる格好で持って、そのまま持ち上げ、リヤカー本体が頭の上に来るところまで上げたのです。
…わかるでしょうか。。(^_^;)

一応、僕もテキストアートに挑戦してみます(笑)

□□□
□□□
□□□


こんな感じ。。
「□」部分はリヤカー本体、「|」は柄、「〇」「人」部分が老人です。

Posted by hide at 2008年05月07日 12:54

 こんばんは、hideさん。
結構返信が続きますね。稀に他のサイトでも書き込むことがあったのですが、ここまで長続きしませんでした。

「空手の引き手なども、相手の手を掴んで採る(捕る)意味があると言われていますね。」……据えものにして打て、という口伝ですね。近年沖縄空手の用法を公開した書籍が発売されましたが、その著者が「空手とは掴んで突くことに特化した武術」とも表現されていました。
先の書込みでの「引き寄せて捕る」という指導は、相手のパンチをいなしても掴んでもいいのですがその攻撃が空突きの体勢まで前に泳がせた瞬間に対処する、という内容でした。この時受け手は後ろ重心に居着いた体勢となるように私には感じられました。
しかしちょっと実験すれば分かると思うのですが、攻撃側が何の予備知識を持っていなくても受け手が待ち構えていればそれを本能的に察知し警戒するのではないでしょうか。そんな状況の中で前に泳ぐほどのパンチを簡単に強振するでしょうか?逆に言えば、強振するからには止めの攻撃にするはずなので、絶対にはずさない布石を打つはずなのです。そんなことをするのは格闘技的な練習を積んだ者だけではないかという意見があるでしょうが、私は素人でもそれを本能的に十分やっていると思います。余談ですが、ライオンも不審な人間に襲い掛かる際にちょっとしたフェイント的な行為をしている映像を見て驚いたことがあります。フェイントを始めとする、止めの一撃へのプロセスというものは生きものが本能的に身に付けているのではないかとも思えました。
それが学問的真実かどうかはさておき、様々な要素がリアルタイムに進行する実際の場を考えれば、引き寄せて捕るという“だけ”の説明は非現実的に感じたのです。

「上手くなり過ぎてもいけない」
「自分との対話や矯正」
全く同感です。型稽古はともすれば指導者の言うことを再現することが唯一の目的になりがちだと思います。言い方を変えればある固定化されたイメージを具現化するというか……。しかしそれでは床の間に飾る美術刀のようなものになるのではないのかなと私は感じます。見た目の調和や伝統の継承よりも、肥後守や十徳ナイフのように日常で簡便に使えるものの方が、私のような凡人にはありがたい気がします。

“気”についてですが、心気力という言葉(?)について書かれた文章を思い出しました。
心……何かをしようと意図を持つこと
気……その行動を起こす引き金を引くこと
力……その行動そのもの
というような内容だったんですが、私が間、先を初めて考えさせられたきっかけでした。
hideさんのお考えの内容とは関係ないかもしれませんが、今後の書込みを楽しみにしています。

「戦前では逆に自分から当身を打ち込みかけていたそうです」というのは飽くまで型稽古だそうです。こちらから手刀を打ち込み相手に受けさせて技をかけてゆく、という内容だそうです。

「投げや関節などの技をかける前に、当て身を使って相手の動きを一時的に封じ、その隙にかけるということです」……牽制の当身という意味でしょうか。
以前、同じような当身をかけて技に移行する際、本来なら寸止めするはずが誤って当身が当たってしまって相手の方が戦闘不能になったことがありました。その当身は牽制なので非常に軽いものなのですが使いようによっては非常に効果的だと知りました。

リヤカーのご老人をやっと理解できました。頭上に差し上げるとは驚きです。
肉体労働の方の強さ、それをベースに稽古で培った体使いの双方があって初めて可能なことなのかな。

Posted by 青人 at 2008年05月11日 22:23

>青人さん
こんにちは。コメントをありがとうございます。>  結構返信が続きますね。稀に他のサイトでも書き込むことがあった
> のですが、ここまで長続きしませんでした。僕は一応、書き込みがあれば返信する方ですが、適当に切り上げてもらっても結構ですよ(笑)
でもまた他の記事にもコメントもらえれば嬉しいです。(^_^)> 据えものにして打て、という口伝ですね。近年沖縄空手の用法を
> 公開した書籍が発売されましたが、その著者が「空手とは掴んで
> 突くことに特化した武術」とも表現されていました。『隠されていた空手』でしょうか?
だとすれば、僕はまだ読んでいませんが、著者のHPを見に行ったことはあります。
「掴んで突くことに特化した武術」というのは、何となく「そうかなー?」と思ってしまいますが、掴むことも闘争の中で当たり前な手法だとは思います。
特に昔は、日本や中国などの文化圏では、衣服の関係もあって、掴むことが今より有効な面もあったでしょうしね。「据えものにして打て」…は、もちろんそれが理想的なのですが、相手の身動きを奪った状態で打てというニュアンスが強いように思えます。
これはなかなか難しいですね。。
現代格闘技風に言えばストッピングという手法になると思いますが、こっちは、相手の攻撃や動きの起こりを防御の意味で一時的に止めるということで、この方が自然に(本能的に)誰もが行うような方法でもあり、現実的な気がします。>  先の書込みでの「引き寄せて捕る」という指導は、相手のパンチを
> いなしても掴んでもいいのですがその攻撃が空突きの体勢まで前に
> 泳がせた瞬間に対処する、という内容でした。
(※以下略)なるほど。。
おっしゃるように、ズブの素人でも、よほどの運動音痴でもない限り、警戒して、いきなり渾身の突きやパンチを打ってくるようなことはあまりないと思います。
また、今は格闘技も盛んですし、ボクシング、K-1、総合…などを観て、見よう見まねでやるような人でも、フツーにフェイントは使ってきますよね。お約束上でしか成り立たない技というのも、修得のためにまずそれを通過することも大事だとは思いますが、いかに実際に役立つ工夫をできるかが問題ですね。>  “気”についてですが、心気力という言葉(?)について書かれた
> 文章を思い出しました。…まぁ、それは今風に言い換えれば、脳で考えたことが電気信号として伝わり実際のアクションになることと同義な気もしますが…。
ただ、昔の人が、そういう言葉にどういう意味を含ませたかとか、実際の技術としてどうかとか、流派による考え方とか…などなど、感じ取ることは大切ですよね。>  hideさんのお考えの内容とは関係ないかもしれませんが、今後の
> 書込みを楽しみにしています。ありがとうございます。
大した腕前でもない上に拙い文章力ではありますが、楽しみにしていてもらえるのは嬉しいことです。
励みになります。(^_^)>  「戦前では逆に自分から当身を打ち込みかけていたそうです」
> というのは飽くまで型稽古だそうです。こちらから手刀を打ち込み
> 相手に受けさせて技をかけてゆく、という内容だそうです。

なるほど。
そういうことなら、今でもやっていそうですが…?

>  「投げや関節などの技をかける前に、当て身を使って相手の動きを
> 一時的に封じ、その隙にかけるということです」
> ……牽制の当身という意味でしょうか。

牽制もあるかも知れませんが、主に一時的に動きを封じる意味ですね。
古武術では、例えば手のひらを相手の顔の前に出して一瞬視界を奪って技をかける手法を「霞をかける」と言うそうですが、それも、当て身も、前述のことで言えばストッピングの一種ということになるでしょうね。

>  以前、同じような当身をかけて技に移行する際、本来なら寸止め
> するはずが誤って当身が当たってしまって相手の方が戦闘不能に
> なったことがありました。その当身は牽制なので非常に軽いものなの
> ですが使いようによっては非常に効果的だと知りました。

たぶん、当てられた人は、当たると思っていなかったので体がそれに備えていなかったのではないでしょうか。稽古上とは言え不覚だとは思いますが…。
けれど、
そういう意味では、前述の「霞をかける」や投げの前の当て身なども、相手の気を削ぐ意味で、続く次の攻撃がより強力になり、効果的ではあるでしょうね。。

ただ、僕が言ったのは、合気道の投げに拘るがために当て身をセットにするという考え方が、どうも「合気道の技をかける」という美意識に縛られている気がして、
「そんなことに拘るくらいなら当て身で倒せばいいやん」
…となったわけです。。(^_^;)

Posted by hide at 2008年05月12日 07:17

こんにちは、hideさん。しばらく間が空いてしまいました。

はい。「隠されていた空手」です。私は書籍も拝見しました。型に含まれる動作が相手を前にした場合どう活かされるのかが分解写真で解説してありましたが、本当に重要なのは写真に現れないその用法の部分であるようにも思えました。
いつも型稽古していて、この型は実際どう使うんだろう?と思いながらやっていたもので・・・
「隠されていた空手」にしてもその型を想定したような使い方をするにはコツがあるのではないかな?(掴み方とか・・・)それも「いかに実際に役立つ工夫をできるかが問題」ということですね。

でも一方でhideさんがそれに疑問を抱かれるのも何となく分かる気もします。
自由に動く相手を一概に掴んで固定するだけではなんともならないし、ストッピングの方が簡単なのでは?ということも事実の一側面のようにも思えます。以前、伝統派の主催するフルコンタクトルール試合に参加したとき、ストッピングがあっさり使えて相手が崩れたので意外に感じたこともありました。随分以前のことですから今はそうはならないでしょうが。

「脳で考えたことが電気信号として伝わり実際のアクションになることと同義・・・」
神経生理的に人間の行動を語るとそうなり、まさしくその通りです。以前は相手を目の前において稽古する際、そういった視点無しにやっていました。その頃はどうしてもモグラタタキ的反射神経練習になっていたのですが、現在では安定的に相手を捕るための重要な視点なんだなと感じています。

直近のhideさんの突きについての書込みや「そんなことに拘るくらいなら当て身で倒せばいいやん」の言葉から思うに、hideさんの戦術においては突きが重要な位置を占めているように感じられましたがどうでしょうか。お恥ずかしながら私の場合、当身で倒す感覚が正直言って分からないのでhideさんのように一突きで決着をつけるということには憧れを感じます。
それを突き詰めたらどんな戦い方になるんでしょうね。
稽古に精進され、そういう境地に到達されることを祈っています。
また時々訪問します。

失礼いたします。

Posted by 青 at 2008年05月31日 15:48

>青さん(青人さん)

こんにちは。お久しぶりです。
コメントをありがとうございます。

型の用法に関しては、知れば意外な意味があったりして面白いのですが、現実にはその通りに使えないことが多いと思います。
それよりも、型の中に含まれているエッセンスのような部分が重要だと思っています。
これについてはまたそのうち書きます。

> でも一方でhideさんがそれに疑問を抱かれるのも何となく分かる気も
> します。
> 自由に動く相手を一概に掴んで固定するだけではなんともならないし、
> ストッピングの方が簡単なのでは?ということも事実の一側面のよう
> にも思えます。

誤解のないように一応書いておきますが、僕は「掴む」という手法を否定してはいませんよ。
攻撃を成功させるために相手のどこかを掴むことは当然アリです。
また、相手を固定できるなら、その方が確実ですからそれに越したことはありません。
しかし「固定する」のは非常に難しいので、例え一瞬でもいかに相手を止めるかという意味で、現代風にストッピングという手法を引き合いに出しましたが、いずれにせよ相手の動きを止めるというところでは同じです。

> その頃はどうしてもモグラタタキ的反射神経練習になっていたのですが、
> 現在では安定的に相手を捕るための重要な視点なんだなと感じています。

すみません、ここ、言わんとする意味がちょっとよくわかりません…。
僕的解釈で言えば、武術の動作というものは結局は反射だと思っています。
もちろん反応の速さだけがすべてではないでしょうけれど。。
これは相手と、
「1、2の3!」
で同時に手を出してどっちが早いかを競うわけではないですからね。。

> 直近のhideさんの突きについての書込みや「そんなことに拘るくらい
> なら当て身で倒せばいいやん」の言葉から思うに、hideさんの戦術に
> おいては突きが重要な位置を占めているように感じられましたが
> どうでしょうか。

それは違います。
前に当て身で云々書いたときは、
「型や技に拘ることが相手を倒すという目的から外れてしまってはおかしい」
ということを言いたくて、合気道の人のことを引き合いに出したのです。
合気道の投げを成功させるために当て身を活用する…というような考えを時折耳にしますが、その当て身を当てられるのなら、まずそれで倒すことを考える方がシンプルだということです。
もちろん、初撃が効かなければ次の攻撃を即座に続けて出さなければなりませんし、投げが得意で投げられるのなら投げればいいのです。
逆に言えば、突きに拘って、絶対に突きで倒そうとするのもおかしいのです。

> お恥ずかしながら私の場合、当身で倒す感覚が正直言って分からない
> のでhideさんのように一突きで決着をつけるということには憧れを
> 感じます。

一打必倒の突きというのには憧れていますが、それに拘ってはいませんよ。
理想とする技の姿…というか、そういう美意識のようなものはあっても、前述のように、それに縛られていては、それこそ何一つできないようなことになりかねませんからね。。(^^;

> それを突き詰めたらどんな戦い方になるんでしょうね。

まー、もし仮にそういう威力があったとしたら、人を殺傷するのに充分な刃物を持っているのと同じってことでしょう。。

言うまでもなく素人でも刃物を持てば人を殺傷できるわけですから、素手でそれと同等以上になろうとするのは、考えてみれば回りくどい話です。
ただ、修練によって身についたものが多少なりともあれば、イザという場面で活路を見いだせる可能性がわずかでもあるかも知れないわけです。
まぁ、武術なんてものは、起こるかどうかもわからない“イザ”のためにやっている自己満足の世界なだけかも知れません。。(^_^;)

Posted by hide at 2008年06月01日 12:20

こんばんは、hideさん。
(店を出て行こうとしたら呼び止められて戻ってきたような感じですが…)

空手と合気道の話になった時点で文脈を読み取れなくなっていたようです。普通に考えると自由攻防の中で様々な攻撃をする相手に対して、何らかのプロセス(?)を経て最終的に突きで終わらせるということがhideさんの戦い方なのかなと勝手に想像していましたが誤解していました。当たり前のような話ですが柔軟な姿勢ですね。

様々な流派で独特の多種類の技を稽古すると思うのですが、私自身の正直な感覚で言えば多種類の技を状況に応じて流れるように使いこなすということは現実的ではないように感じます。一部の才能ある方は可能なのでしょうが私はそうではないので同じところを目指していても何も手にすることはできないのではないかな?と感じています。ですが、多様な状況に対し2つか3つの限定された展開(技)に持ち込めるのならまだ可能性は残されていると思いその方向で稽古を続けています。柔軟で多様な対応というわけではないかもしれません。
こんなアプローチは誰から教えられたものでもありませんが。

「以前はモグラタタキ的反射神経練習になっていたのですが、現在では安定的に相手を捕るため・・・」というのは神経生理的な解釈で
1.相手が当身を出そうと狙う。
2.当身を発射する指令を下す。
3.実際に当身が発射される。
というプロセスに分類できると思いますが、3の段階になって初めて対処をスタートするような稽古をしていたため、相手がいつ当身を発射するのかビクビク緊張して待ちうけている状態に常になっていたというのをモグラタタキ的と表現しました。ですが今では1の段階で対処をスタートするようにしているため先手を取れて楽な感じがするように思います・・・という意味合いでした。

言葉の定義が異なると議論はかみ合わないものですが、武術は(少なくとも世間的な意味合いでの)「反射」ではないんじゃないかと感じています。うまく言葉で説明できないのですが、例えば総合格闘技の試合でグレイシーの選手の戦術は数手先を読んで予め決められた戦術をなぞっているのではないかと思われるほどエレガントに感じます。彼らの行動を見ていると相手の一挙手一投足に敏感に反応し出方を変えている、というより相手がどう出てこようとも自分の戦略に引きずり込むということに特化しているようにも感じます。
相手を上回る反射スピードではなく、いかに無理の無い戦術を組んだかという点に私は共感します(考え方において)。
「1、2の3!で同時に手を出してどっちが早いかを競うわけではない」とhideさんが書かれているので、通り一遍な反射だけではなくその前のプロセスを重視する意があるとは思いますが。

物理的な稽古をやっている以上、イザという時に素人並みの反応しかできない、ということだけは避けたいですが、そんなケースの頻度たるや一生に一度あるかないかモノであることは確かですね。そういう意味で自分が満足するところを追っかけているだけの行為といってもいいかもしれません。

Posted by 青人 at 2008年06月08日 23:37

>青人さん

こんにちは。コメントをありがとうございます。

> (店を出て行こうとしたら呼び止められて戻ってきたような感じで
> すが…)

あははは。後ろ髪ひくようなレスですみませんね。。(^^;(笑)

> 様々な流派で独特の多種類の技を稽古すると思うのですが、私自身
> の正直な感覚で言えば多種類の技を状況に応じて流れるように使い
> こなすということは現実的ではないように感じます。

半分以上同感です。
僕がやっている武術についても、例えば太極拳はバラエティに富んでいますが、形意拳は基本的に少ない型しかありません。
他派の形意拳はよく知りませんが、色々な型がある流派は、近年になって追加された型で彩られているのだと思います。
また、形意拳から派生している流派では、意拳や太気拳のように型を捨ててしまった流派もあるようです。
それから太極拳と形意拳は、共通の拳理と言いながら、片や“千変万化”と称して様々な技を型を通して反復練習し、片や「技はそんなに要らない」と言って少ない型をひたすら反復練習します。
この一見矛盾することの間にあるものは何か…ということも、考えてみるべき点でしょうね。

同感の部分で言えば、イザというとき、一瞬の攻防、突き詰めれば最初の一合の間に、あまり色んなことを状況に応じて使い分けてできるはずがありませんし、青人さんのおっしゃる通りだと僕も思います。
ただ、色んな動きを反復しておくことによって、勝手に体が動くということが稀にあります。<僕自身そういう経験があります。
だから対応力をつける意味で(必ず使えるとは限りませんが)、色々な技を練習しておくことは無駄ではない気がします。
しかしあまり多すぎても、どれもこれも身につかないようでは、これまた意味がない気もしますね…。

実はこれは、前に書いた記事の中でもほんの少し触れていて、途中で濁しています。
また後でもう少し触れるつもりでいます。

「モグラタタキ」については、改めて説明をありがとうございました。
言わんとすることは解りました。
青人さんが言う1~3で言えば、1を読んで動くことを“兆しを読む”などと言いますね。
もちろん、3に反応するような反射では遅いですし、限界もあります。
一般的に言う反射で言えば、先天的に速い人も居ますし、訓練によってわずかなりとも向上する部分もあるでしょうから、そういう訓練も必要とは思いますが、しかし実験的な反応速度で言えば、プロのアスリートも素人もあまり大きな差はないそうです。
つまり闘争技術においては、何らかの経験による先読みが働いて、素人よりずっと速い動きができるわけです。
このとき、相手の何らかの兆しに対して、こちらもまた何らかの行動を起こす、この行動自体、兆しに対する反射と言えるのではないでしょうか。
そして技の反復練習が体への刷り込みとなっていて、何も知らないよりはずっと高度な防御行動や反撃動作を行うことができます。
僕が言う反射は、そういう意味です。

> 彼らの行動を見ていると相手の一挙手一投足に敏感に反応し出方を
> 変えている、というより相手がどう出てこようとも自分の戦略に引
> きずり込むということに特化しているようにも感じます。

言わんとするところにあまり差はないかも知れませんが、わずかでも先んじていて相手を有利な状況で取ることができれば、ある程度は相手の動きに合わせて次の技をかけることができると思います。
つまりはコンタクト時点での組み方が良ければ、まるで予め決まっていたかのようにスルスルと技をかけていくことになり、逆に甘ければ相手にも返す余地があるということになるのだと思います。
また、ああいうルールの攻防だからというのもあるでしょう。
もちろんその上で、グレイシーが芸術的なほど上手いことは言うまでもありません。

Posted by hide at 2008年06月09日 07:36

こんにちは、hideさん。

太極拳、形意拳、意拳、太気拳と中国拳法というくくりの中でも取り組み方が異なる訳ですね。それは知りませんでした。
対極的な取り組み方が存在するということ自体が、戦いをどう捉えるのかという視点が色々あると言っているような気がしました。

我が流派で型は様々あるけれどその運用の仕方(戦い方)を誰も知らず、結局キックボクシングから戦いのセオリーを持ってくるしかなかったんですがそんなこととも繋がりがあるように感じられて面白いお話です。

「モグラタタキ」の話はかつての私にとって衝撃的(笑)でした。言葉は悪いですが、こんなインチキでいいのかっ!とも思えましたが、実はうまい人は皆やっていることでもありました。自分が知らないだけだった・・・とも言えます。

「僕が言う反射は、そういう意味です」
納得しました。

私も今後、自分が偶然掴めた上達への道をマッタリと進んでいきたいです。
hideさんもよき稽古を積み重ねられることを祈っています。

では、今度こそ・・・

Posted by 青人 at 2008年06月21日 13:23

>青人さん

こんにちは。コメントをありがとうございます。

> 対極的な取り組み方が存在するということ自体が、戦いをどう捉える
> のかという視点が色々あると言っているような気がしました。

まぁその通りです。
これについても、またそのうち色々書きます。

> 我が流派で型は様々あるけれどその運用の仕方(戦い方)を誰も知らず、
> 結局キックボクシングから戦いのセオリーを持ってくるしかなかったん
> ですがそんなこととも繋がりがあるように感じられて面白いお話です。

今の戦い方としては、それが主流ですからね。。
現代的にはそれが最も自然でしっくりくるスタイルなのかも知れません。
ただ、これは僕の解釈ですが、太極拳にせよ、空手にせよ、合気道にせよ、ムエタイスタイル(キックボクシングスタイル)のような構えや用法は、元から含まれていると思っています。
しかし今のようなムエタイスタイルになりきってしまうと、逆に捨ててしまった部分が多いように思えて、残念な気がしてしまいます。
青人さんのところではどう消化しているのかわかりませんが、まぁ、これも工夫の要るところでしょうね。

> 「モグラタタキ」の話はかつての私にとって衝撃的(笑)でした。
> 言葉は悪いですが、こんなインチキでいいのかっ!とも思えましたが、
> 実はうまい人は皆やっていることでもありました。
> 自分が知らないだけだった・・・とも言えます。

剣道の“先”(せん)の理合いはご存知でしょうか?
多少観念的なところもありますが、これも似たようなことだと思います。
ご参考までに。

それはそうと、このやりとりで、青人さんは非常にリテラシーに優れた方だなぁと思いました。
もっとも、リヤカーのことはなかなか伝わりませんでしたが…(笑)
いやいやそれは冗談で、、
それも正確に理解しようとする姿勢の現れですので、気持ちよくやりとりできました。

またよかったら、他の記事にもコメント下さい。

Posted by hide at 2008年06月21日 16:55

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