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太極拳ってど〜よ!?

徒然エッセイ

武術と武道

投稿日:2007年4月1日

「武術」と「武道」…。この2つの呼び方に拘る考えがある。

TVの某対決料理番組じゃないケド、どっちでもええやん。。。

…と思いつつも、ちょっと書こう。

これらを分けて考える主張としては、要は、
「スポーツ化した“武道”は本来あるべき姿のものではない。古来より伝わる殺傷技術としての技をしっかり継承していくべきで、ウチでやっているのはそういう意味で本来あるべき姿の“武術”だ」
と言いたいのだと思う。
結局は宣伝文句の一つじゃないかという気もするが、その影響からか修行者の中にも、
「自分がやっているのは“武術”だ」
と、同様の拘りを持っている人が少なくない。

ただ、こういう主張が生まれた背景としては、柔道が昔、オリンピックでオランダのヘーシンク選手に破れ、“道”を説く武技に対する懐疑が生まれたのが元だったような気がする。
また、中国武術ブーム以降、日本の古武術にも注目が集まったりして、解説本や漫画などで、スポーツ競技化した“武道”への反発めいた意見を見かけるようになったように思う。

日本では元々、剣術や柔術など「~術」と付く呼び方が一般的だったようだ。
何故「~道」になったかは、明治時代、講道館柔道を創始した嘉納治五郎氏が「術」を「道」に置き換えて一般化し普及させたため、他もそれに倣ったとされている。よく聞く話だ。
空手の場合も、
「船越義珍氏が嘉納氏の世話を受けた際、“柔道”に倣って“空手道”とした」
というようなことを、どこかで読んだ気がする。
そして今では、普及しているものは、柔道、剣道、空手道、合気道、弓道など、やはり「道」と付くのが一般的だ。

その「道」の代表たる柔道は、広く普及させるため昔の危険な技を除いて健身と競技化を目指したので、殺傷技術としての色合いは失せてしまったと言われている。
空手も、安易に西洋式の理論やトレーニング法を取り入れて本来の技術を失ったとか、競技空手と化してしまったと言われたりする。
そして、
「術」という言葉に拘る人の間では、「道」はスポーツ競技の象徴で、本来あるべき姿を失ったものという捉え方になっている。

…しかし、本質に拘り、
「本来あるべき姿の~」
などと言いながら、そういう人たちも、本質そのものを歪ませていないのかどうか…。

こういう話は“武術”の優位性を説くときに使われるわけだが、では武術をやっている人は、昔から継承されている危険な技をどれくらい使えるのだろうか?
「“武術”は“武道”と違って何でもアリだ」
というのもよく聞くけれど、“武道”をやっている人だって、相手を殺す気で戦うとしたら急所を狙うだろうし、武器だって使うかも知れない。
そんなとき、“武術”なら“武道”を圧倒できるのだろうか!?
どれほど優位に立てると言うのだろう!?

…まぁ。
普段から急所攻撃を想定した練習をするかどうかや、心がけの違いはあるかも知れない。
しかし、技のバラエティや方法や術理は優れていても、どこまで使えるかは個人の力量や覚悟の問題だ。
それを、今の時代の現実的な想定を踏まえない伝統的な手法の稽古だけで、“武道”や他の格闘技より優位に考えるのは、どうだろう…!?

現代武道も失ったものばかりでは無いだろうし、新たに工夫され取り入れられた手法もあるはずだ。
また、科学的に開発されているトレーニング法の中には、昔の秘伝の練功法と重なるものもあるような気がする。
例えば、空手や中国武術の練功法の中には、農具や生活用品を体を鍛えるためにうまく活用した方法などが伝えられているが、それは人知れず修練するための工夫であっただろうし、今のように恵まれた環境では無かったからというのもあっただろう。
今は人体の研究も進んでいるから、同様の効果、同等以上の効率を図っている部分もあると思う。
だからと言って、長い間培われてきた武技の中には一般には知られていない技術もあるから、いにしえのすべてを網羅できているとは言えない。
そういったプラス・マイナスを考慮していくと、少なくとも普通の人がライフスタイルの一環として行っている範囲の武術と武道には、特別な差は無いのではないだろうか。。

…まぁ、武術をどのようにやっていくかは人それぞれでいいと思う。
しかし、中国武術にしろ、日本の古武術にしろ、夢のような武技を思い描いている人は、本質を感じ取る前に、本などの知識や自分のイメージを当てはめてしまおうとしがちだという感じがする。
そんな人が道半ばで自流の優位性を語り、“武術”と“武道”を区別するのは滑稽にさえ思えてしまう。
僕もそんな時期はあったが、ただ少なくとも、時には疑ってみることや批判的立場から見てみることも行いつつ、続けてきた。
アヤシイ宗教の信者みたいに盲信して“気”や“発勁”云々等々を夢見てきたわけではない。

“本質”に拘るとき、一番わかりやすいのは結局、強さだ。
しかし、強さには個人差があるため、技術体系の完成度や、術理や、メソッドとしての評価などを、一概に量ることはできない。
そして武術世界は秘密も多いので、客観的評価が難しい。
そんな中では結局、強さが原点であることを認めつつ、それ以外の要素も含めて、自分がどのように価値を見出すかということくらいしか、評価の方法は無いと思う。
だから、冷静かつ客観的に見られるセンスが求められる。
ある意味これも“リテラシー”かも知れない。

ここで言いたいのは、僕にそういうセンスがある云々ではない。
僕自身、そういう風に考えることができているのかどうかを疑っているし、またこれに限らず、常により良い考えを模索している。
そして自分が、どうなりたいのか、どう関わっていくのか、などの天秤で考えれば、少なくとも職業武術家でもない人は、武術だの武道だの、そんな言葉の違いに拘っても仕方があるまい。
“武術”としての理想を追いたい、という気持ちは解るんだけれどね。。

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